【短期集中連載】戦後サブカルチャー偉人たちの1945年 第一回:戦わなかった兵士たち

やなせたかし、笠原和夫、川内康範……それぞれの戦争体験とは? 「戦わなかった兵士たち」の葛藤

 小説『火垂るの墓』、『麻雀放浪記』、映画『ゴジラ』、『仁義なき戦い』、漫画『アンパンマン』……今日まで愛されるコンテンツに、作者の戦争体験が投影された作品は少なくない。戦後の文学、映画、漫画などのサブカルチャーの担い手の多くは、終戦時に幼児であった人間も含めて、何らかの形で戦争を経験していた。ある者は戦場に行き、またある者は家族と死に別れ、またある者は外地で終戦を迎えて苦難の末に帰国した……。そこには、同じ戦争体験といっても、千差万別のドラマがあった。

 終戦から80年を迎える2025年8月、リアルサウンド ブックではライター・佐藤賢二による短期集中連載「戦後サブカルチャー偉人たちの1945年」を掲載する。第一回は「戦わなかった兵士たち」と題して、やなせたかし、笠原和夫、川内康範の戦争体験を振り返る。

やなせたかし:徴兵されて戦地で現地民に紙芝居を見せる/『アンパンマン』の発想の原点

やなせたかし(本名・柳瀬嵩)/漫画家・作詞家
・1919年2月6日〜2013年10月13日
・1945年の年齢(満年齢):26歳
・1945年当時いた場所:中華民国 上海市四渓鎮

やなせたかし『ぼくは戦争は大きらい(新装版)』(小学館)

 『アンパンマン』シリーズの原作者やなせたかしには、『ぼくは戦争は大きらい』(小学館)という戦争体験に特化した著作がある。その冒頭には、激戦地の経験者から「「本当の戦争はこんなものじゃなかった」とおしかりを受けるかもしれません」とある。実際にやなせは戦わなかった兵士で、戦場での任務の一つは、なんと紙芝居屋だった。

 やなせの自伝『アンパンマンの遺書』(岩波書店)によれば、出生の地は高知県香美郡在所村(現在の香美市)。父の柳瀬清は、上海にあった東亜同文書院(日本と清国・中華民国の交流を目的に設立された学校)の卒業者で、やなせが4歳の時、朝日新聞特派員として赴任していた中華民国の廈門で死去する。当時2歳の弟は伯父の養子となり、その後、やなせも再婚した母と別れて伯父の家に住むが、養子にはなっていない。なお、やなせとその妻の暢をモデルにした2025年放送のNHKテレビ小説『あんぱん』とは異なり、暢と出会ったのは戦後『高知新聞』に就職したときのことだ。

やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波書店)

 1940年春、東京高等工芸学校を卒業したやなせは、田辺製薬の宣伝部に就職する。当時すでに日華事変(日中戦争)が継続中だった。翌年、やなせは徴兵されて、福岡県の小倉にある第12師団の野戦重砲兵隊に属する。徴兵の検査官は、「貴様は父も母もなく、弟は養子に出て、戸籍上はたったひとりか。国家のために一身を捧げても泣く者はいないな。心おきなく忠節をつくせ」と言ったという。郷里の高知の部隊に配属されなかったのも、肉親はなく、どこに行っても良いと見なされたからだ。

 やなせは学校の体育も軍事教練も苦手だったうえに、小倉には頼れる知人もおらず、上官からは耳慣れない九州の方言で怒鳴られてシゴキを受ける。まず大砲を牽引する輓馬隊に回されるが、思い切り馬に蹴られて下の前歯を三本失ってしまった。その後、暗号班に移り、軍曹にまで昇進したが、部下を殴らなかったので隊内では慕われた。

 小倉には一度、弟の千尋が訪ねて来た。やなせは愚兄賢弟を自称し、千尋は京都帝国大学を出て海軍士官となっていたが、のちに乗っていた輸送船が沈められて遺骨も残さずに戦死する。やなせは「名前のように、弟は千尋の深海に沈んだ」と記す。

 召集から2年で除隊となる予定だったが、1941年12月の日米開戦により召集は延長された。そして、1943年春、アメリカ軍の台湾上陸を迎え撃つ拠点を構築するため、中華民国の福建省福州市に送られる。やなせは暗号班の仕事のかたわら、現地住民の協力を得るための宣伝工作(宣撫)にも従事し、絵が得意だったので紙芝居を作った。内容は日本と中華民国になぞらえた双子の兄弟が喧嘩するが、最後は和解するというもので、かなり好評だったが、実際は通訳係が適当な内容を語っていたようだ。そもそも福州の住民の多数は、日本との戦争とまるで無関係な生活を送っていたという。

 戦争末期、やなせの属する部隊は上海へ移動する。1日40kmもの行軍が続き、その道程の一部は、くしくも父の清が東亜同文書院の卒業旅行で通った道と重なっていた。途中で敵襲もあったが、やなせは結局、一度も銃を取って戦っていない。終戦を迎えたのは上海近郊の四渓鎮だった。終戦間際、やなせはマラリアと飢えに苦しんだが、敗戦と同時に備蓄の食料が放出されて大食いしたという。

 やなせは自分の戦争体験を「無駄に動き回っていただけ」と記し、自分とは異なり激戦地に送られた兵ばかりでなく、空襲を受けた銃後の国民の方がよほどつらい目を見ただろうと述べる。そして、敗戦によって「正義は或る日突然逆転する」と痛感し、逆転しない正義は献身と愛であり、餓死しそうな人に一片のパンを与えることだと考えるに至った——この思いから、後年に漫画家となったやなせはアンパンパンを生み出す。

 やなせが作詞した『アンパンマンのマーチ』は、「生きるよろこび」を強く説く反面、「たとえ 胸の傷がいたんでも」という一節がある。これを、やなせが過酷な戦場を体験せずに生き残った罪悪感と結びつけて解釈する者は少なくない。幼児期の孤独、父や弟との死別など、やなせの胸の傷はそれだけではないだろう。やなせ自身が献身と愛のヒーロー、アンパンマンになりたかったことは間違いない。

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