藤田直哉 × 藤津亮太『宮﨑駿の「罪」と「祈り」』対談「日本における信仰やある種の超越的なものの感覚を表現している」
〈やっぱ戦争のトラウマですよね。原爆で真っ平らになった後でも人間たちは生きてきた。それと同じように、人類が絶滅しても植物は生え続ける〉――文芸評論家の藤田直哉氏は、宮﨑駿のアニミズム観の根底にある戦争体験と生命への眼差しを鋭く分析した。
新刊『宮﨑駿の「罪」と「祈り」』では、宮﨑作品に通底する「アニミズム」をキーワードに、作品ごとに変化する10のフェーズを追跡。躍動的な少年から内省的な少女へ、そして文明への悲観と生命への希望が同居する世界観の変遷を読み解く。
刊行を記念して、アニメ評論家の藤津亮太氏との対談が7月11日(金)に行われ、8月3日(日)までアーカイブ配信中だ。宮﨑駿という巨大な作家の創作の核心に迫る対話の一部を、ここに紹介する。
アニミズムが変化する――10のフェーズという発見
藤津亮太(以下、藤津):本書では宮﨑駿が描くアニミズムが作品ごとに変化していくことを、フェーズとして1から10まで分類されています。大きくは同じアニミズムだが、それぞれに違いがあるという整理の仕方が、非常に見通しが良いと思いました。これはどのようにして生まれたアイデアなんでしょうか?
藤田直哉(以下、藤田):そもそも私がアニミズム自体に関心を持ち始めたのが、この本を書く直前ぐらいからでした。元々は近代合理主義的な考えが強かったんですが、ある種の信仰みたいなものも考えなければいけないのかなと感じるようになってきたんです。日本で興行的に成功しているエンタメ作品を見ると、宮﨑駿作品のほか『鬼滅の刃』『君の名は。』と、どれもアニミズムや神道的な要素が含まれていて、これらが興行成績のTOP3を占めています。『ゴジラ』のような作品も、要するに“神”みたいなものが使われているわけで、私はこうした大衆文化の中に現れる、ある種の神的なものへの感覚を理解したいと思った。なぜそれが必要で、どう心理的に機能しているのかなど、それを通じて日本や日本人のことを考えたいと思ったのです。理論的な背景には、丸山真男の近代や民主主義の議論があります。
藤津:藤田さんご自身には、宮﨑駿的な“土地に根付いた感覚”というものが希薄だったということでしょうか?
藤田:そうですね。私は東京に移住してきたインターネット世代、サブカルチャー世代ですから、どちらかというとバーチャルリアリティ等に親近感がありました。生まれ育った北海道でも、郊外のニュータウンでしたらから、日本的な土着性と縁が遠かったんですよ。その代わり、人類始まってからたぶん一度も切り拓かれていないような「原始林」とかが家の周りにはあって、自然に圧倒されたり畏怖感を覚えたりという感覚はあったんですが。そのため『攻殻機動隊論』やインターネット論など書いてきましたが、テクノロジーやインターネットによって新しい世界が生まれるという希望がフェイクニュースとかテクノリバタリアンとかで次第に萎んできて、自分の中に反省が生じたんです。これまでの伝統や日本的なもの、土着的なものを見直す必要があるのではないか、その中で日本のアニミズムについても、いいところと悪いところも含めて検討しなければ、と思いました。東日本大震災後に被災地などを観ていて、自然に圧倒的な何かを覚えたり、救いを覚えるという感覚がわかってきて、子供も生まれて、元気よく育つ生命に希望を見出す感覚も分かってきて、それを考えたかったんですね。
宮﨑は、巨大な破壊であったり、自然であったり、日本における信仰やある種の超越的なものの感覚を表現していて、それが戦後日本の大衆に何らかの形で響いているはずだ、と。彼のアニミズム観を追跡することで、日本人の大衆的な、無意識的な信仰の層に迫りたいと思ったんです。そこで手掛かりにしたのが、宮﨑駿の「縄文」と結びついたアニミズム観で、それは国家神道とか弥生文化的なもの以前の日本列島の信仰ととされていた。ある意味で非主流・周縁の神道だと言えるかもしれません。それだったら、僕の実家の周りにも世界遺産になっている縄文遺跡があるし、祖父母が入植したのもアイヌの聖地である静内の近くだったりしたので、自分でもとっかかりを作れるんじゃないか、自分なりの「土着性」と関係を切り結べるかなと思ったんです。
子供の躍動から見出す救い――戦後日本のトラウマ
藤田:『未来少年コナン』では主人公たちが草に例えられているんですが、そこにはやはり戦争のトラウマを見てしまいます。原爆で焼け野原になった後でも人間たちは生き続け、生活を再建してきた。それと同じように、たとえ人類が絶滅しても植物は生え続ける。子供たちも生き生きと元気に育つ。躍動的に動くこと、生き生きとしていることそのものに、宮﨑さんは救いを見出しているんだと思います。子供や人間にもアニミズムを見るというのが、おそらく宮﨑さんの感覚なんでしょうね。
藤津:『コナン』の頃は、ちょうど宮﨑監督のお子さんもコナンと同じくらいの年齢で、実際に子供の動きを観察しながらコナンを描いたとインタビューに答えていました。
藤田:そうなんですね! 私自身も6年前に子供が生まれまして、子供を育てていると、本当に元気でよく笑うし、すぐ成長していって面白くて、結構その感覚が本書に入ったというか、宮崎駿が何を描こうとしたのか、親の視点で観返すようになって色々発見して驚いたんです。勝手にどんどん大きくなって、生き生きとしている。一方で大人である私は、地球が滅亡するんじゃないかとか、戦争になるんじゃないかとか、温暖化は大丈夫かとか、思い悩んでいる。もう人類は絶滅してしまうほど愚かなのではないかと思ってしまうときもあるけれど、でも子供は常に元気で、それを見ていると絶望はしていられない、シニシズムやニヒリズムはひっこめなきゃいけないという気にさせられる。宮﨑さんの激しい人類への怒りや絶望と、子供たちや次世代への希望を示す文章を読んで、その実感と通じ合うものを感じ、「なるほど」と思ったんです。宮﨑さんは自然とか生命とか子供とかを見て、そこに人類史の救いのなさからの、救いや救済の感覚を得ていたんだと思うんです。私自身も子供を育てながらそういう感覚になっていたので、未来に希望が持ちにくくなり、少子化になっている今の日本や世界の現状を念頭に置きつつ、それを克服する考えを宮崎作品に探ろうとしていました。
文明への悲観と躍動の同居――宮﨑駿の異様さ
藤田:宮﨑さんが作家として異様だと思うのは、高畑勲さんとは違って、世界の終わりや戦争に対する深い悲観があることです。特に『風立ちぬ』では、一生懸命頑張って夢を叶え、科学技術を発展させた結果として世界が破滅するという、ある種の「罪」の感覚がある。第二次世界大戦中のエスカレーションを体験させるような、人類に対して悲観的になってしまうような側面を必ず描こうとする。その一方で、漫画映画的な楽しさやギャグ、躍動感もある。この二つが同時に存在していることが本当に異様なんです。高畑さんは、科学や文明によって人類が滅亡するかもしれないという絶望を繰り返し描くことはしない。
藤津:そうですね。高畑さんの方が共産主義、あるいは科学的社会主義というか、科学的合理性みたいなものを強く信じている。モダニスト的な面があると思います。だから、ジブリに来てからの高畑さんは「我々はかつてあった幸福な田園を追われて、近代的な枠組みの中で悩みながら生きていかなければいけないんだ」という話しかやっていないとも感じられます。
藤田:ポスト宮﨑駿で言えば、庵野秀明にはその科学や文明の罪の感覚が少しあるんですよ。新海誠にはなくて、彼は科学の要素がなくなってしまっている。細田守にも結構乏しい。スタジオポノック作品にもないでしょう。アニメじゃないけど、山崎貴にもないんですよ。本多猪四郎の『ゴジラ』にはあるんですよ。個人的には、やっぱりその「味」がないと物足りないというか。それがないと、第二次世界大戦以後の人類の置かれた状況をちゃんと引き受けて、新しい価値観なり文化なりを創造し、より良い人類の状態を希求するような戦後日本のサブカルチャーの価値が乏しくなっちゃう気がするんですよ。それは私が原子力屋さんの子供だったからそう感じるのだと思いますけれど。その深刻な罪の意識、絶望感、恐怖と裏返しに、救いや解放・自由・喜び・安心・落着きをアニミズムに求めているというのが宮﨑作品の心理構造なんだ、というのが私の宮﨑論なんです。
※続きは配信動画にて。宮﨑駿と高畑勲の自然観の違い、『もののけ姫』へと繋がるアニミズムの拡張、そして人間不在の「聖なる場」への憧憬について、さらに深い議論が展開される。
■書籍情報
『宮﨑駿の「罪」と「祈り」 アニミズムで読み解くジブリ作品史』
著者:藤田直哉
発売日:6月30日(月)
価格:2,750円(税込)
出版社:株式会社blueprint
■イベント情報
『宮﨑駿の「罪」と「祈り」』刊行記念トークショー
出演者:藤田直哉、藤津亮太
日時:7月11日(金)19:00〜
配信サービス:Zoomウェビナーにて配信
配信期間:7月11日(金)19:00〜8月3日(金)23:59(アーカイブ視聴可)
参加対象者:blueprint book storeにて書籍『宮﨑駿の「罪」と「祈り」』を購入した方