村上春樹の最新作「武蔵境のありくい」の読みどころは? 主人公・夏帆の”主体性の無い正義”
村上春樹の最新作となる「武蔵境のありくい」が、4月7日発売の『新潮』2025年5月号に掲載されている。
目次で「武蔵境のありくい――〈夏帆〉その2」と表記されているのは、同じ夏帆という女性を主人公とする、昨年書き下ろされた短篇「夏帆」(『新潮』2024年6月号掲載)が存在するから。2作は連続した物語としても読めるが、それぞれ一話完結の作品として読んでも支障はない。果たしてこれが初期の青春3部作のような形へと発展していくのか、作者の意向は今のところ特に発表もされていない。そんな先行き不透明なシリーズの一部を成す(かもしれない)本作は、動物の「ありくい」が狂言回しとなる、御伽噺のような雰囲気を持つ中篇小説である。
夏帆は山手線の車内で、一匹の雌のありくいに出会う。〈いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です〉。歯科医の待合室で、スターバックスで、ありくいは目の前に現れては同じ言葉を繰り返す。夢の中の出来事のようではあるが、意識ははっきりしている。次第に不安になり、引越しを考え出す夏帆。イラストや絵本を描くことを生業としており、作業スペースさえあれば、住む場所にこだわりはなかった。引越しの相談に乗ってくれた父方の叔父は、武蔵境に何の恨みがあるのか、〈あれはひでえところだぞ。まさに文明の果つるところだ〉〈駅の改札で狸が帽子をかぶって偉そうに切符売りをやってた〉などと酷いことを言っているけれど。結局、夏帆はお告げに従う。現在住む足立区花畑から同じ都内とはいえ随分と西にある、武蔵境の古い一軒家へと引っ越していく。
ところが武蔵境に越しても、雌のありくいは姿を消さない。それどころか、夏帆の家の床下に夫のありくいと共に住みつく始末だった。ありくいの奥さんは、今度はおつかいを夏帆に頼んでくる。夫が食べたがっている、日本では禁制品である故郷ブラジル産のシロアリのオイル漬けを手に入れたい。ついては、武蔵境駅近くの商店街にある刃物研ぎの店、裏では輸入業者の拠点となっている『とぎや』で取り扱っているので、受け取りに行ってほしいというのだ。
断りきれずに引き受けた夏帆は、物語世界で「異界」となる場所に足を踏み入れ、そこでは「悪」となる存在が待ち受けている。一見すると、過去作の焼き直しのような展開である。だが、本作には他の村上作品と明確に異なる点がある。これまでなら「妻を取り戻すため」「呪いを克服するため」といった、悪と向き合う理由や意思が主人公には存在した。夏帆には、それが無い。
〈私はごく普通の、どこにでもいるあたりまえの人間なのだ〉。そう自分を規定する夏帆は、波風を立てることを避けて生きてきた。だから、ありくいの謎めいたお告げや危険な頼み事もとりあえず受け入れるし、彼らの価値判断により「悪」と判定されたものと対峙させられることにもなる。それは夏帆の人柄のよさとも、意地悪な見方をすると主体性の無さとも受け取れるし、性格を見透かした狸に化かされているのではないかとも思えてくる。
この構図にたとえば、知らず知らずのうちに陰謀論や危うい思想に取り込まれていく人々を思い浮かべることもできる。制作中のありくいを主人公とした絵本で、善と悪の対立の行方について考えあぐねていた夏帆。彼女の夢の中で起きている出来事という読み方をするなら、作者・村上春樹が小説で善悪を描くことの苦悩や葛藤を投影しているのではないかと、考えることもできる。
さまざまな解釈のできる不穏な寓話として、読み応えは十分。武蔵境の狸に騙されたと思って、ぜひ一度読んでみることをお勧めしたい。
■書誌情報
『新潮 2025年5月号』
価格:1,200円
発売日:2025年4月7日
出版社:新潮社
https://www.shinchosha.co.jp/shincho/