村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』なぜ人間の暴力性と悪を描いたのか『100分de名著』特集から考察
残虐描写で「人間の持つ暴力性や悪」を叩きこむ
「デタッチメントからコミットメントへ」という村上春樹の言葉も挙げて紹介する『ねじまき鳥クロニクル』という作品は、失職中の「僕」こと岡田トオルがFM放送から流れるロッシーニのオペラ『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹きながら、台所でスパゲティーをゆでているという村上春樹らしい場面から始まる。そこから猫探しに出て戻ってくるまでの間に起こる出会いと、ちょっとした人間関係の変化を描いて読む人の心をザワつかせる。
1986年に発表され『パン屋再襲撃』(文春文庫)に収録されている短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」と流れは同じで、そのまま短編として成立しそうな『第1部 泥棒かささぎ編』の「1 火曜日のねじまき鳥、六本の指と四つの乳房について」から始まった物語に、トオルが妻のクミコと結婚する際に会に行った本田さんという老人が現れ、その老人の経験として「ノモンハンでの戦争」が登場したことで、世俗から超然としていた「デタッチメント」の世界が社会や歴史と「コミットメント」し始める。
そして、『第1部 泥棒かささぎ編』の「12 間宮中尉の長い話1」から2章にわたって綴られる、本田さんと戦友だった間宮中尉が語るノモンハンでの苛烈な戦闘と残酷な描写が、不穏な雰囲気にザワザワとはさせられていても、どこか他人事のように見えていた物語に、歴史的な現実を叩き込んで読む人を混乱させる。
吉本は、こうした展開を『ふたりの村上 村上春樹・村上龍論集成』の中で「作者は現在の風俗状況にたいする苛立ちを間宮元中尉の凄まじい戦争談で吐き出したかったのだとおもえる」と分析している。沼野も、『100分de名著』のテキストで、「村上は、人間の持つ暴力性や悪というものをここまで描かないと、自分が考える総合小説は意味を持たない、そう考えたのではないかと思います」と指摘している。
沼野によれば、総合小説とは、「たとえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のように、世界の多様性や、一つにまとまらない様々な考え方を、ポリフォニック(多声的)に全部取り組んでいくような作品にあたる」とのこと。『ノルウェイの森』がベストセラーとなったことで、余裕を持って執筆に取り組めるようになった村上が、世界に通用する総合小説を書いてみたいと考え挑んだ成果が、この『ねじまき鳥クロニクル』だったのかもしれない。