【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第8回:モデル対シミュレーション

2、シンセサイザーとしてのピアノ

坂本龍一『ピアノへの旅』(アルテスパブリッシング)

 ともあれ、ラモーの甥は他者の過剰なシミュレーションによって、自己虐待的な苦行に向かった。人間では本来演じきれない音楽を、むりやり一人の人間のパフォーマンスに変換する――この異様なシミュレーションは、ディドロの主人公の身体をひどい苦悶に追い込むことになる。

 ただ、ここで重要なのは、このような他者のシミュレーションが、やがて人間ではなく機械に肩代わりされたことにある。つまり、産業社会の進展にともなって、ラモーの甥のパフォーマンスは機械化されたのだ。

 引き続き音楽の文脈で言えば、その機械化を代表する楽器がピアノである。坂本龍一や伊東信宏が強調するように、そもそもピアノは「デジタルでメカニカル」な工業製品に近く、鍵盤はオン/オフを切り替えるスイッチに相当する(※2)。つまり、ピアノとは室内に入り込んだ音楽機械であり、近代の機械論的な世界観を凝縮した楽器にほかならない。

 しかも、ピアノはその機械的な平均性によって、他の楽器を模倣する装置となった。往年の名ピアニストであるエトヴィン・フィッシャーがかつて指摘したように、ピアノは「中性的な楽器」であり、特別な音色の魅力をもたないが、だからこそ他のさまざまな楽器(オルガン、チェンバロ、ティンパニー、バイオリン……)を不完全にではあれ、模倣することができる。つまり、その中性的・匿名的な機能性が、他の楽器のシミュレーションを可能にするのだ。この「多面的な媒介者」としてのピアノが、バッハやベートーヴェンを経て代数の公式のようになり、やがて「音楽そのもの」にまで進化したとフィッシャーは述べている(※3)。

 こうして、ピアノは他の楽器を媒介=翻訳するメタ楽器として、つまり音楽そのもののシミュレーションとして機能する。そのシミュレーションの性能があがれば、ピアノがオーケストラの代替を務めることも不可能ではなくなる。現に、19世紀きっての技巧的なピアニストとして鳴らした作曲家のフランツ・リストは、ベートーヴェンの交響曲やヴァーグナーの楽曲をピアノ用に編曲したが、そのようなアレンジは、オルガンやバイオリンのような個性的な音色をもつ楽器では成り立たない。

ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『リスト ヴィルトゥオーゾの冒険』(春秋社)

 他者に憑かれたラモーの甥は、オーケストラそのものに仮装しようとして、滑稽な道化になった。逆に、リストは音楽機械としてのピアノをフル活用し、ラモーの甥(人間)の限界を乗り越えた。リスト的なヴィルトゥオーゾ(妙技を披露するピアニスト)とはたんに派手な演奏テクニックを見せびらかす曲芸師ではなく、一台のピアノ=機械を酷使することによって、そのシミュレーション(変身)の性能を最大限に引き出そうとするプレイヤーのことなのだ。「ヴィルトゥオーゾは、複数のパートを同時に演奏できるばかりではなく、さまざまな役割を次々とこなすこともできる。ヴィルトゥオジテとは自分以外の他人を演じうる力であり、まったく性格の異なるものになりきれる力にほかならない」(ジャンケレヴィッチ/※4)。

 ピアノという音楽機械を駆使して、ヴィルトゥオーゾは他者になりきる――このとき、ピアノはいわば原初的なシンセサイザーに近づくだろう。裏返せば、多数の楽器の音を合成できるシンセサイザーは、ピアノの翻訳=媒介の特性をいっそう際立たせた電子楽器なのだ。それはまさに、前出の坂本龍一の仕事とも重なりあう。ピアノやシンセサイザーを操った坂本は、その活動においてもピアノ的人間、つまり諸ジャンルを横断し翻訳する「多面的な媒介者」であったのだから。

※2 坂本龍一『ピアノへの旅』(アルテスパブリッシング、2024年)65、179頁。
※3 E・フィッシャー『音楽観想』(佐野利勝訳、みすず書房、1999年)60頁以下。
※4 ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『リスト ヴィルトゥオーゾの冒険』(伊藤制子訳、春秋社、2001年)64頁。ヴィルトゥオーゾの「まったく性格の異なるものになりきれる力」を発揮したすさまじい演奏の記録としては、ホロヴィッツの弾いたムソルグスキー『展覧会の絵』およびリヒテルの弾いたシューマン『交響的練習曲』――両者ともにリストを得意とした――が、私の知る限り双璧である。

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