建築界のノーベル賞・プリツカー賞、日本人は9人受賞 なぜ日本人建築家は世界で評価されるのか

■世界に評価された丹下健三

  1909(明治42)年に明治建築界の卒業証書といわれる「迎賓館赤坂離宮」が竣工し、日本人建築家は明治の間に西洋建築の基礎を習得することができたのである。大正時代に入ると、建築家たちは日本に相応しい建築の在り様を模索し始める。昭和初期には鉄筋コンクリートなどの新素材が用いられたことで自由な表現が可能になり、デザインの幅は劇的に広がり、和風建築からモダニズム建築まであらゆる建築が生み出されていった。

『丹下健三 一本の鉛筆から』(丹下健三/著、日本図書センター/刊)

 そして、戦後には丹下健三が「広島平和記念資料館」や「香川県庁舎」などの日本的な美意識を加味したモダニズム建築の傑作を生みだしていく。そして、丹下は1964(昭和39)年の東京オリンピックの会場「代々木競技場」を竣工させ、そのダイナミックな建築美で世界を驚かせた。この代々木競技場によって日本の建築界は世界の頂点に立ち、全体のレベルが底上げされ、世界をリードする存在になっていくのである。

 丹下の活躍は若手の建築家を勇気づけ、その作品を見て建築家を志す若者が多く現れるなど、戦後の建築界に大きな影響を与えた。また、丹下の研究室からは黒川紀章や磯崎新などの天才的な建築家が生まれた。そして、黒川や磯崎もまた後進に大きな影響を与え……といった具合に、現代まで世界レベルの建築家が誕生し続けているのだ。

■未来の日本建築に希望は持てるか

  そして何より、そういった建築家に設計を依頼しようと考える、“ユニーク”なクライアントが多いことも日本の特徴といえよう。例えば、無名だった20代の黒川紀章に山形県寒河江市の食品工場や市役所が設計を依頼したりと、若手の建築家の才能を後押しする文化が確かに日本にはあった。さらに、建築家の奇想天外なアイディアを形にできる技術を、ゼネコンなどの建設会社が進化させてきた。

  こうした様々な要因が奇跡的なレベルでうまく結びついていることが、日本人がプリツカー賞を受賞できる要因のひとつになっているといえよう。

  しかし、昨今の日本の建築界は苦境に陥りつつある。長引いた平成不況によって、日本人は奇抜で派手な建築を嫌うようになり、目立つ建築が計画されるとネット世論を中心にバッシングが飛び交うようになった。地域のシンボルたる庁舎などの建築を造るときも、デザインの美しさよりも、「いかに安く造るか」ばかりに焦点が当たるようになった。

  21世紀に入ってから日本人がノーベル賞を多く受賞しているが、近年は研究現場が予算不足に喘いでおり、この先、受賞者を今のペースで出すことは難しいといわれている。それはプリツカー賞も同様だ。大阪万博のリングを設計する藤本壮介にもX上でバッシングが寄せられているが、その多くが「建設費用が高すぎる」というものばかりだ。これで建築の文化が育つだろうか。

  経済性ばかりを追求し、建築家の創造をバッシングする風潮が続くと、建築が衰退していくのではないかと危惧する。日本の建築はアニメや漫画などと並ぶ、世界に誇る日本の文化である。明治時代から、いや、法隆寺の時代から受け継いできたこの優れた文化を絶やすことになったらあまりに悲しい。山本のプリツカー賞受賞を機に、建築の文化的価値を今一度、考え直したいものである。

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