うんこブームから考える、人類との文化史「水」「紙」論争「小石」や「海綿」も……お尻は何で拭いてきた?

■うんこと人類の文化的側面

(左から)ミダス・デッケルス(著)『うんこの博物学 - 糞尿から見る人類の文化と歴史』(作品社)スチュアート・ヘンリ(著)『はばかりながら「トイレと文化」考』(文藝春秋)

   うんこがブームである。前回は人類はうんこをどう処理してきたかについて、ミダス・デッケルス(著)『うんこの博物学 - 糞尿から見る人類の文化と歴史』とスチュアート・ヘンリ(著)『はばかりながら「トイレと文化」考』を中心に考察をしてみた。今回も、その二冊に依りながら、人類は何でお尻を拭いてきたのかを考えていきたい。

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■お尻を紙で拭く記録は6〜7世紀にすでにあり

『うんこの博物学 - 糞尿から見る人類の文化と歴史』で生物学者のミダス・デッケルス氏は人が排便の後に尻を拭く行為を、猫がグルーミング(毛づくろい)をするのと同じ原初的欲求であると考察している。体を綺麗にする、掃除をするのは「自然に取り憑いた強迫観念」とのことである。猫を飼っている方はしばしば見る光景かもしれないが、猫を自分の尻を舐めていることがある。グルーミングと尻を拭く行為は根本的には相通じるものなのかもしれない。うんこ同様、体内から出てくる汚いものと言えば、鼻水もわれわれ人間を悩ませる分泌物の一つである。マナー上はティッシュで噛んでしまうことが推奨されるが、ティッシュの中で鼻水を発酵させるよりもすすってしまった方が衛生上は好ましいらしい。胃に入ってしまえば、鼻水は胃酸で無害化されるからというのが理由である。

  少々脱線したが、人は原初的欲求をもとに様々なもので排便の後の尻を拭いてきた。その中には想像が容易いものもあれば、そうでないものもある。現代の一般的常識であれば、もっともありがちな尻を拭く方法はトイレットペーパーだろう。平均的には一度の排便で使うトイレットペーパーの枚数は8~9枚だとのことである。ティッシュと並んで日常で最も触れる機会の多い紙だろう。ヨーロッパでも北米でもわが国でも一般的な尻を拭く手段である。

顔之推 (著), 林田愼之助 (翻訳) 『顔氏家訓』(講談社)

  尻を紙で拭く行為が一般的になるのは20世紀以降だが、人類が紙で尻を拭いた記録はかなり古くまで遡ることができる。尻を拭く用途に紙が使われた可能性を示す記録が6〜7世紀の中国の家訓書『顔氏家訓(がんしかくん)』にある。訳し方によって異なるようだが、、紙の歴史研究家で長きにわたり製紙会社に勤めた関野勉氏は「文字の書いてある紙は、鼻をかんだり、厠(かわや)で使わないことと解釈している」と語っている。わざわざ「厠で使わないこと」と注釈しているということは、逆説的にそのような使い方をする者がいたということだろう。この記述は、当時すでに紙が尻を拭く用途で用いられていた可能性を示している。森林資源の豊富な日本は、紙で尻を拭くことが一般化したのが比較的早く、江戸以降のことである。当時普及していた「浅草紙」はあまり質の良くない再生紙の一種で、チリ紙として使われていた。

  東南アジアでよく見られる桶で水を汲んで、水で尻を洗う形式も想像が容易な尻を拭く方法だろう。デッケルス氏は自身の見解として「水を使うのが一番」と結論付けている。

  古代ローマで一般的だったのは海綿(天然のスポンジ)を使う方法だ。柔らかいもので尻を拭くという発想は現代のトイレットペーパーにも通じる。ローマに限らず、ギリシャ、トルコ、キプロスなどの地中海諸島では当時、海綿を使うのが一般的だったそうだ。紙と違うのは、スポンジが再利用可能であることだ。ローマには優れた上下水道システムが存在し、多くの公衆トイレが存在したことは有名な話だが、公衆トイレには尻を拭く海綿も備えられていた。古代ローマ人の感覚だと、現代の公衆トイレにトイレットペーパーが備えられているのと同じようなものだったのだろう。問題は、そのスポンジが使い捨てではなく使いまわしである事である。人が尻をぬぐった後のスポンジを使って尻を拭くなど、想像するだけでぞっとする光景である。そのスポンジには誰かがしたうんこがついていることが想像に難くない。知らない人と「お尻合い」になりたいと考えるのはよほどの博愛主義者でも無理だろう。

  そんな事情もあり、どうやら古代ローマ人は「マイボトル」ならぬ「マイスポンジ」を持ち歩いていたようだ。その前提に立つと、新約聖書に気になる描写が出てくる。「ヨハネの福音書」にローマの兵士がゴルゴダの丘へと登るイエス・キリストに「海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした」と描写がある。ここで立ち止まって考えてみたいのだが、そのローマ兵は海綿をいったい何のために持っていたのだろうか?当時の習慣を考えると、ローマ兵が尻を拭くために海綿を持っていた可能性を排除することは難しい。筆者の品性に欠ける想像通りだとしたら、イエスが「なめただけで、飲もうとはされなかった」のはその海綿の本来の用途が容易に想像がついたからではないだろうか。極めて冒涜的、不衛生、侮辱的な行為だったことになる。

 わが国は森林資源が豊富であり、チリ紙の登場も比較的早い。だが、紙で尻を拭くのが一般化するのは前述のとおり、かなり近代寄りの習慣(江戸時代以降)である。ここで東福寺のトイレ利用ルールに「木の棒で尻を拭いて水の入った筒に投入する」と書かれていたことを思い出していただきたい。木の棒を使って尻を拭くのは修行僧に限ったことではなく、少なくとも戦国時代以前は一般的なやり方だったようだ。この木の棒を籌木(ちゅうぎ)と呼ぶが、籌木のような硬いものでも事足りたのは、かつての日本人が繊維質の多いものをよく食べていたため、現代人ほど軟便ではなかったからだと考えられている。湿り気の少ないうんこなので、紙のような柔らかいものでなく、木べらのような硬いもので十分に尻から拭えたのだろう。籌木は使い捨てることもあったが、鉋で表面を削って再利用することもあったとのことだ。完全使い捨ての紙よりもエコである。籌木については、実写映画化された歴史漫画『群青戦記』でも単行本でオマケレベルの描写がある。似たような例(尻を硬いもので拭いた)で、ヨーロッパでも中世の修道士が陶器の破片で尻を拭いていたとの記録が残っている。

 現代でも、エジプトでは砂漠に落ちている小石を使う人がいるという。ピラミッド観光の男性ガイドたちは、ポケットに小石を数個いれておき、用を足すときに利用しているそうだ。ポケットにしばらく入れておくのは、砂漠の小石は暑すぎて冷まさないと使えないというのが理由らしい。小石は使い終えたら捨てるが、灼熱の砂漠なので熱で自然に消毒できるという仕組みである。砂漠ならでは気候風土を利用した、エコな尻の拭き方である。

 それ以外にも、人類は様々なもので尻を拭いてきた。その中にはやわらかい葉っぱや海綿、古布、水で洗うなどの想像がさほど難しくないものから、「なぜそれで尻を拭こうと思ったのか?」という疑問を持たざるを得ないものまでさまざまである。

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