第172回芥川賞候補5作品を徹底解説 安堂ホセは3度目、乗代雄介は5度目のノミネート どの作品が受賞なるか

 2025年1月15日(水)に第172回芥川賞が発表される。候補作に選ばれたのは、以下の5作品(50音順)。

・安堂ホセ「DTOPIA」(『文藝』秋季号)
・鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」(『小説トリッパー』秋季号)
・竹中優子「ダンス」(『新潮』11月号)
・永方佑樹「字滑り」(『文學界』10月号)
・乗代雄介「二十四五」(『群像』12月号)

 安堂氏は3度目、乗代氏は5度目のノミネートとなる(ちなみに芥川賞の歴史上、最高ノミネート回数は、島田雅彦などの6回)。以下、候補作を順番に紹介する(最後に予想もする)。

安堂ホセ「DTOPIA」(『文藝』秋季号)

〈だから私には、今でも信じていることがある。おまえは最初から怪物だった訳ではないということだ。〉

 第1作「ジャクソンひとり」(2022年)、第2作「迷彩色の男」(2023年)に続き、第3作にあたる今作がまたもやノミネート。デビュー作以来、発表した全作品が芥川賞の候補になっているという圧倒的打率には単純に驚く。

 物語の導入となるのは、フランス領ポリネシアのポラ・ポラ島というリゾートを舞台に繰り広げられる恋愛リアリティーショー。ミスユニバースと呼ばれる女性と、世界各国の都市名で呼ばれる10人の男性のみならず、視聴者もまじえて交錯してゆく欲望の狂宴で日本代表となるのが、語り手により「おまえ」と呼ばれる「Mr.東京」だ。語り手の「私」と「おまえ」の間には、常識の一線を超えた過去があった。ふたりがまだ中学生だった遠い昔のあの日、「おまえ」は、学校のプール棟の更衣室で、幼馴染の「私」の睾丸を摘出したのである。

 皮肉たっぷりの社会批評的な分析と、物語的なドライブ感を巧みに両立させる著者のデビュー作以来の手腕は、本作でさらに磨き上げられている。過去作がブラックミックスやゲイというアイデンティティと密に関係する、ある意味で個人的な作品だったのに対し、本作はむしろ、その外側に広がる荒廃した世界の現実をこそ描こうとする野心作だと言える。

 「私」の父の教育の倫理、各国の都市の名を冠する恋愛リアリティーショーの参加者らのキャラクター、植民地主義のもとに島で繰り返し行なわれた核実験、そして現在進行形の虐殺。本作の仮想敵のひとつは、それらの背後に存在する、「国」というわれわれの閉ざされた「関心領域」である。だれかにとってのユートピアを、だれかにとってのディストピアを、崩壊させるための強力な呪文のような小説だ。

鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」(『小説トリッパー』秋季号)

〈「ドイツ人はね」とヨハンは言った。「名言を引用するとき、それが誰の言った言葉か分からなかったり、実は自分が思いついたと分かっている時でも、とりあえず『ゲーテ曰く』と付け加えておくんだ。何故なら、『ゲーテはすべてを言った』から」〉

 第10回林芙美子文学賞で佳作を受け、「人にはどれほどの本がいるか」(2024年)でデビューしたばかりの著者の受賞後第1作が、早くも候補作入り。ちなみに林芙美子文学賞は、まだ10回しか開催されていないにもかかわらず、前回の芥川賞受賞者の朝比奈秋や、2020年受賞者の高山羽根子を輩出しており、確かな実力を持った作家を着実に世に送り出す賞として、再注目されてよいと思う(ここだけの話、投稿応募作数もほかの文芸誌より少なめなので、小説家デビューを目指すなら、意外と穴場かもしれない)。

 本作は「私」による、日本のゲーテ研究の第一人者である義父・博把統一からの「聞き書き」という体裁の作品になっている。家族での会食時、統一がイタリアン料理店で出された紅茶のティー・バッグのタグには、こんな格言が書かれていた。「愛はすべてを混乱させることなく混ぜ合わせる」。タグにはゲーテの箴言だと書かれていたが、あろうことか統一にはその典拠が思い当たらない。こうして、この典拠不明の名言の出所を探すという悪魔の証明チックな作業に統一が時間を奪われていく、というのが本書の大筋となる。

 ここで大筋だというのはむしろ、本作で玩味すべきは、作家の圧倒的な教養量と情報量をこだわり抜いて詰め込んだ細部のほうであるように思われるからだ。そこに若干やりすぎ感もがあるのも否めない。が、作家はそのことを知悉している。統一が自身の出演する「眠れぬ夜のために」という(NHK「100分de名著」的な?)番組の台本を推敲する場面に、こんな一文がある。「全体を俯瞰すれば、読み物としてそこまで悪くないようにも思えたが、余りに欲張りが過ぎて、必要以上に多くのことを盛り込んでしまった感もまた否めなかった」。本書に読者が抱く感想を先回りする、予防線的な自己言及とも取れるが、一文はこう続く。「これでは書き手ばかり満足して、読者は胸焼けするのではないか、と今更ながら不安に感じるとともに、結局、俺はいつもゲーテに託けてすべてを言い切りたかったのだ」。賞レースへの適応度を基準とすれば、やや不恰好な作品に見えるかもしれないが、この作家の根底に存在する「すべてを言い切りた」いという欲望は、長い目で見て期待すべき美点だと思う。

竹中優子「ダンス」(『新潮』11月号)

〈下村さんは、惨めだった。〔……〕下村さんはやせ衰えていくことが生命の輝きであるかのように、苦しんでいるんだか楽しんでいるんだかよく分からないダンスを踊っているようにも見えた。〉

 第56回新潮新人賞受賞作で初ノミネート。プロフィールによれば、著者は歌人であり、詩人でもあるそうで、第一歌集『輪をつくる』(2021年)や第一詩集『冬が終わるとき』(2022年)などの著作がすでにあるという。

 そんな著者の初小説である本作は「今日こそ三人まとめて往復ビンタをしてやろうと堅く心に決めて会社に行った」という物騒な書き出しから始まる。そう決心するのは、入社2年目20代の「私」。職場で浮いている「私」がほとんど唯一頼れる、一回り歳の離れた先輩の「下村さん」は、職場内の三角関係から会社を休みがちになり、婚活パーティーに参加している。音大出身の「下村さん」は、自分が結婚したら、子どもに音楽を教えるのが夢だという。

 その後、ひととおり「職場小説」的なすったもんだが描かれてから最終盤、いささか大胆に物語の時制が飛ばされる。40歳を過ぎ、病院で腫瘍の検査を受けることになった「私」が、十数年ぶりに下村さんと再会する場面が描かれるのだ。そこで「私」は、職場の三角関係に振り回された20代が終わり、激動ながらもライフイベントを含むさまざまな経験をした「いい三十代」を経たことで、価値観が好転したのだと「下村さん」に告げる。だが、そう言うならむしろ、その「いい三十代」の話をこそ、ちゃんと読んでみたかったと思うのは、ないものねだりだろうか。不器用に生きる主人公たちの姿は好ましく思うものの、他の候補作と並ぶと、長さ的にどうしても小ぶりに見えてしまうのは否めなかった。

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