三浦しをん、万城目学を輩出した著作権エージェント「ボイルドエッグズ」が築いたものーー村上達朗氏の訃報に寄せて

 著作権エージェントの有限会社ボイルドエッグズを創業した村上達朗氏が10月2日、死去した。三浦しをん、万城目学という2人の直木賞作家を発掘し、滝本竜彦から坪田侑也まで若い世代の心を引きつける作家を続々と送り出した名編集者としての顔があり、同時に出版社に代わって作家の育成から売り込みまで手がけるエージェントという機能を、日本の出版界に広めた功労者だった。

 10月22日に息女の森薫氏からメールが届いて、村上達朗氏の死去を知った。程なくして毎日新聞に村上氏の訃報が載り、朝日新聞や読売新聞、そして共同通信が配信した記事を全国の各紙が掲載して、著作権エージェントとして三浦しをんや万城目学らを輩出した人物であったことを伝えた。単に直木賞作家の“生みの親”としてだけでなく、ボイルドエッグズを通して繰り広げてきた活動を、主要メディアが評価していたことが伺えた。

 ボイルドエッグズは、作家や著述家らと契約し、その作品を出版社に売り込む仕事を主に行っている。これぞと思った人に声をかけることもあれば、持ち込まれた作品を読んで契約することもある。後に『まほろ駅前多田便利軒』で第135回直木賞を受賞する三浦しをんの場合は、早川書房で就職希望者の対応をしていた村上が三浦の文才に気づき、採用されなかった三浦に声をかけたところから関係が始まった。

 最初はエッセイの連載から始め、やがて小説を書いてもらって出版各社に売り込んだ。こうして草思社から刊行されたのが『格闘する者に○』という就職活動をテーマにした小説。以後、幻想的な作品やラブコメ的な作品を経て、箱根駅伝をテーマにした『風が強く吹いている』を刊行。バディ物の『まほろ駅前多田便利軒』で2006年7月に直木賞を受賞し、今は直木賞の選考委員も務めるまでになった。

 滝本竜彦は、ボイルドエッグズに作品を持ち込んだ口だ。ネットで文章を発信していた滝本が寄せた『ネガティブハッピー·チェーンソーエッヂ』を読んで、冒頭部分を膨らますよう指導して改稿。同作はKADOKAWAが運営していた学園小説大賞にエントリーされて第5回の特別賞を受賞した。続けて『NHKにようこそ!』を刊行し、こちらはコミカライズやテレビアニメ化が行われ、今も根強いファンを持つ作品となっている。

 万城目学の場合は、ボイルドエッグズが持ち込みに留まらず広い範囲から作家を募ろうとして始めたボイルドエッグズ新人賞から登場した。この新人賞が特徴的だったのは、エントリーに費用を支払う必要があったことだ。一般的な出版社の新人賞には存在しないこのエントリー料の仕組みは、選考にかかる費用をカバーするという意味よりは、応募する側にそれだけの覚悟を求める意味が大きかった。

 作家は、本当に読んで欲しいという気持ちをエントリー費用に込めて応募し、選考する側も真剣に読んで選び出し、作品として完成させて出版社に売り込み刊行にまで持っていく。そうした仕組みは当時も今も珍しく、エントリー料を狙った商法と誤解する向きもあった。そうではないことを証明するには、応募作から将来性のある作家を見つけ出す必要がある。そうした覚悟を持って取り組んだ結果として、第1回では日向まさみち『本格推理委員会』が受賞して刊行にこぎ着けた。

 そして第4回で『鴨川ホルモー』を引き当てる。受賞した万城目の才能は、その後に幾度も作品が直木賞にノミネートされたことからも分かる。なかなか受賞には至らなかったが、三浦しをんから18年遅れる2024年上期の第170回直木賞を『八月の御所グラウンド』で受賞し、ボイルドエッグズ出身者から2人目の直木賞作家が誕生した。このことだけでも、村上氏に編集者としての眼力が備わっていることが分かる。

 改稿などの要求もなかなか厳しかったようだ。村上氏の訃報を受けて、第15回ボイルドエッグズ新人賞を『あしみじおじさん』で受賞した尾崎英子が、SNSのX(旧Twitter)に「2013年ボイルドエッグズ新人賞を受賞して作家としてデビューし、それから10年間、ときには厳しすぎて音を上げそうになったこともあるくらい熱心に伴走してくれた」と書いている。「2作目がなかなかうまくいかず、そんな折にわたしの病気が見つかってもう執筆を諦めようとした時も村上さんがつねに励ましてくれた」とも書いて、編集者としての面倒見の良さに感謝している。

 それならどうして、出版社の編集者として活動しなかったのか。村上氏はもともと、早川書房で編集者として活動し、ジョン・ベレント『真夜中のサヴァナ 上:楽園に棲む妖しい人々』やジム·カールトン『アップル::世界を変えた天才たちの20年』を手がけていた。しかし、出版社にいてはそこにマッチした作家や作品しか扱えない限界を感じていた。出版社の枠を超え、優れた作家を発掘·育成したい。そうした思いから独立し、1998年に著作権エージェントのボイルドエッグズを立ち上げた。この頃からすでに、持ち込みにあたっても一定料を聴衆する仕組みを取り入れ、相手の本気と自信の覚悟を問う姿勢を貫いてきた。

 1998年当時の日本で、作家エージェントなり著作権エージェントは珍しい存在だった。海外では著名な作家に代理人がついて出版社に作品を売り込むことが普通に行われているが、日本では出版社の編集者が作家について作品を書いてもらい、本にすることが普通だった。

 皆無ではなく、『銀河英雄伝説』の田中芳樹のように、二次版権管理会社を立ち上げそこが窓口となって編集者なりと交渉する作家もいた。この会社には現在、他の作家も所属して一種のエージェントとして機能している。電撃文庫で『ソードアート·オンライン』や『とある魔術の禁書目録(インデックス)』といった人気作を次々に送り出した編集者の三木一馬が立ち上げたストレートエッジも、作家が所属して出版社を相手にエージェント的な役割を果たしているところもある。

 こうした会社は二次版権も管理し、映像化なりゲームかなりといったメディアミックスの交渉も担当して、作家や出版社の編集者の負担を肩代わりしている。出版社ではかつて編集者が担当した作家の代理人的な役割を果たし、映像化や商品化の交渉も行うようなことがあった。その名残は今もあって、小説や漫画などの映像化にあたって編集者が交渉に関わることもある。

 会社の利益のために働く会社員でありながら、著作者の利益を最大限に追求する代理人としても動かざるを得ない板挟みが、昨今の映像化に関連して起こる問題の要因になっていることが、常々指摘されている。著作権エージェントの仕組みの浸透が、そうした問題の解決につながるといった声が昨今、広がり始めている。

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