杉江松恋の新鋭作家ハンティング グラフィティそのものが小説となった『イッツ・ダ・ボム』

 次は第二部から。TEELはある理由から、グラフィティライターとしての存在をかけてある人物に勝負を挑もうとする。小説のクライマックスは、二人がどのような作品を形にするかを描いたときに訪れる。以下に引用するのは、TEELが署名を刻む場面だ。少し特殊な条件下で彼は作業をしている、という以外に説明の必要はないと思うので、まず目を通していただきたい。

——叫び声と共に、塗料を放射する。わけの分からぬ爆音が、跳ね返る液体に紛れてTEELの全身を叩いた。T。書けたか? 分からない。だが、次へ移るしかない。E。続けろ。E。仕上げた。L。塗料が出続けるノズルを川へ向けロープを手繰って這い上がる。カラピナの市をずらし、再び降りる。さっきの調子ならもう一階、名前を刻めるはずだ。刻んだ。

 躍動している。句点で短く区切られた文章から、読点の一切ない「塗料が出続けるノズルを川へ向けロープを手繰って這い上がる」のつなぎがいい。TEELの呼吸と文章は同期しているからここは一息じゃないといけない。最後の「刻んだ」の省略もいい。身体性をふんだんに盛り込んだ文章で百点だ。満点。

 感情の爆発もまた意味を超越したグラフィティの本質であるはずで、この文章が入ることで、前に引用した描写と合わせて題材への接近は完成する。グラフィティとは何かという考察の文章だけで終始するならそれは小説である必要はない。『イッツ・ダ・ボム』はこうしてグラフィティそのものと見なせる文章によって書かれることによって、小説としての存在意義を獲得したのである。この文書を書けたということが井上の、小説家としての才能を示している。誰にでも書けるわけではない。小説家だから書けたのだ。おめでとう。創作の世界へようこそ。

関連記事