あの文豪がファンタジー世界に転移……無能な主人公が世界を救う『異世界失格』に文学ファンがハマる理由

 ミリタリーマニアなら銃器や戦争の知識で軍人や参謀として活躍できる。サラリーマンでも経済の知識を活かして金を稼ぐことができる。シェフなら料理の腕をふるって大出世間違いなし。そうした職業持ちなら栄達間違いなしの異世界への転移・転生で、作家という職業持ちは活躍できるのか? そんな問いに驚くような答えを出してくれているのが、野田宏原作、若松卓宏作画の漫画で20204年7月からTVアニメもスタートした『異世界失格』だ。死にたいと言うだけの役立たずだが、作家ならではの人を観察して物語を紡ぐ力(スキル)をふるい、異世界に旋風を巻き起こす。

 昭和23年(1948年)6月13日。ドドドドドと流れる玉川上水の側で、「先生」と呼ばれている和装の男と着物姿の女が、手首を紐でつないで入水でもしようとした。そこにトラックが現れ、2人を跳ね飛ばしたところから『異世界失格』という物語の幕が上がる。

 意識を失っていたらしい先生=センセーが目を覚ますと、そこは西洋の教会のような場所で、長い耳をして壮麗な衣装をまとった若い女性の神官・アネットが立っていた。アネットは先生に「あなたは選ばれ、転移したのです。この闇に閉ざされた大陸、ザウバーベルグへ。世界に光をもたらす勇者となるために!」と告げる。

 なんてラッキー! 異世界に転移するなり転生し、与えられたスキルをふるって大活躍したいといった夢がかなった瞬間だと、世に数多ある異世界転移・転生の物語に触れていた人なら思うだろう。センセーは違った。スキルは与えられておらずステータスも死ぬ寸前。これでは生きていけないとアネットに言われたセンセーは、「それこそ、僕の人生だ」と告げて教会の外に出て行く。

 前世でひたすら死を望み、心中を繰り返してきたセンセーにとって死ぬことなど怖くない。そんな割り切りが逆に秘められた力を呼び起こし、センセーを無双させる展開に続いていくのかというと、相変わらずセンセーは死ぬことしか考えておらず、ネコ耳を生やした少女がとらわれていたデスツリーに近づいては、自分もとらわれてしまう。

 そして判明する。センセーの凄さが。『異世界失格』という作品の面白さが。

 拳を振るうわけでもなく、剣を振り回す訳でもないセンセーは、ただ佇んで死ぬことだけを思い描いている。それなのに、デスツリーにとらわれても死ぬことはない。とある王宮を尋ねた時、兵士に化けていたモンスターに襲われても、アネットやタマと呼ぶようになったネコ耳の少女に守ってもらいつつ、父王から婚姻を進められていた王女に自分がやりたいことのために生きる決意をうながす。

 生きるも死ぬも、すべて自分が決めることだといったセンセーの人生への覚悟と、作家ならではの観察力であり表現力が周りの人たちの心を動かし、決断させ行動させる。勇者であろうとする者たちを陰から支え動かすような立場になることが、数多ある異世界に行って勇者なり悪役令嬢といった物語の中心人物になる展開とは違った興奮をもたらす。

 もっとも、そうした無能者なりの活躍を楽しんでいたのも最初のうち。センセーのように異世界から来た転移者たちが、身に付けたスキルを世界のために使おうとせず、自分のためにふるうようになっていく。そして、7人の強い力を持った転移者が、世界を脅かしていた憤怒の魔王を倒し、七堕天使を名乗って自分たちが世界を作り替えると言い始めたことで、センセーも世界の命運をかけた戦いに巻き込まれていく。

 七堕天使やその配下に入った転移者たちが世界の各所で力をふるうようになったことで、センセーはアネットやタマと訪れた場所でそうした転移者と対峙することになる。そこでセンセーが繰り出す一種のスキルが実に興味深い。他人を観察し、過去を調べ、心情を想像してドラマを見出し、小説に綴る作家ならではの行為がある種の儀式となって、異世界の誰も及ばない転移者たちの荒んだ心を救っていく。

 最弱から最強へ。こうした逆転劇も読者はドラマチックなものとして大いに喜ぶ。誰に対しても同じような段取りで儀式を行う訳ではない。作家としての興味がまったく抱けない相手には、倒すべき敵であっても自分では手を出さないわがままぶりも、勧善懲悪のヒーローにはない魅力となってセンセーへの注目を高める。

 よくもこれだけの変化球的な主人公を生み出せたものだが、センセーには実在のモデルがいると考えると、元ネタの方がどれだけの人間だったのかに興味が及ぶ。太宰治。『走れメロス』や『人間失格』といった作品で今も文学史に名前を刻んだ作家がセンセーのモデルだ。

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