「猿」と「人間」の異種交流譚ーー小砂川チトの奇妙な小説『猿の戴冠式』を読む

〈ある種族のなかにおおいにすぐれた者がいて、また別の種族のなかにはきわめてすぐれた者がいた。/かれらの属する種族は偶然には出遭うことのない、深い森の奥に暮らしていた。〔……〕ところが高度に発達した人間は、順にこの二種を発見する。そうしてそのなかに秀でたふたりを見出し、そっと森の外に連れ出すことをした〉

 今年はじめに発表された第170回芥川賞の候補作にも選ばれていた小砂川チト『猿の戴冠式』(2024年)は、こうして厳かに、神話的ですらある短いエピローグから始まる。テーマパークに展示された坑夫姿のマネキン人形を父と思い込む女性を主人公に、想像的な親子関係を描いてみせた前作『家庭用安心坑夫』(2022年、こちらも芥川賞候補作)に負けず劣らず、本書もまた奇妙な小説である。

 さきの引用に言われる「すぐれた者」、すなわち、本書の(ひとまずの)主人公は、猿(「メスのボノボ」)だ。まだ幼い頃に人間の手で「深い森」から連れ出された彼女は、ある研究施設で「老いたオスのチンパンジー」(「別の種族」の「すぐれた者」)とともに動物実験を行なわれていた。その言語能力をためすテストをくりかえした結果、彼女らは知能を宿し、「言語というもののあらましを理解し使いこなすように」なったという。物語は、彼女らによる「言葉」の獲得から始まる。

 それから数十年の時が経ち、そのボノボは現在、ある動物園のガラスの檻に入れられていた。名前は、シネノ。自らの身体が「展示物」として晒される現状に「なにもかもがことごとくいやなかんじ」を覚えながらも、あるトラウマを抱えた彼女は、知能を秘匿し、その境涯に甘んじて安穏に暮らすことを選んでいた。

 そこに一人の、つまり「人間」の「女」が現れる。名前は、しふみ。彼女は、まるでシネノが言葉を理解していると心得ているかのように、このように声をかけてくる。「わたし、あなたのことを知ってる。ねえどうして、こんなところにいるの?」。たとえば、著者が彼女らの名前に仕掛けた企みに象徴的であるとおり、どこか「欠けている」存在であったふたりは、感覚的に惹かれ合い、お互いの孤独への理解を少しずつ深めてゆく。こうして本書は(ひとまず)「猿」と「人間」の異種交流譚として幕を開けるのである。

 だがあるとき、突然に(作中の効果音を用いるなら「ジダン!と」)視点の転換がもたらされる。そこで章番号は「1」から「0」へと巻き戻され、ふたりが出会う以前のしふみが主人公となり、競歩の選手である彼女が起こした、ある炎上騒動に話題は移るのである。ルックスに対するネット上での品評を気に病んだしふみは、かつて、ある「暴挙」に出てしまった。以来、精神的な不調の只中で部屋に籠もりがちになっていたしふみが目にしたのが、テレビの「動物番組」で晒し者にされているシネノの姿であったという。かくして、一方的に侮りの視線を浴びせられ、尊厳を傷つけられた者の、想像的な連帯と回復が、本書の主要なテーマとなる。

 タイトルの「猿の戴冠式」とは、本作のいくつかの重要な場面で、しふみとシネノの間でくりかえし交わされることになる「手話」である(言葉を理解できても「発声」ができないシネノにとり「手話」は、しふみとの重要なコミュニケーション手段である)。両手で王冠を模したかたちを作り、自らの頭上に掲げてみせるその仕草は、たとえば「沐猴にして冠す」、あるいは「猿に烏帽子」といった故事成語を相手取った、ささやかな反抗の姿勢であるだろう。手近な辞書でそれらの語を調べてみると「猿であるのに冠をかぶっている。見かけは立派だが、心が卑しく思慮分別に欠ける人物のたとえ。地位にふさわしくない小人物であることのたとえ」とある。いわば、愚かなる「小人物」の好例としての「猿」。かくして彼女たちは、その手話(つまりは言葉)により、頭上に冠を自ら戴くことで、散々浴びせられてきた、そうした侮りの視線を振り払い、おのれの尊厳を回復することを目指すのである。

 だが同時に、作者の配慮はたとえば、しふみがシネノに向ける視線もまた暴力的であり得る、という点にも及んでいる。「猿」と「人間」を二重写しにしながら、見る/見られるという関係性をさまざまに作中に配置し、乱反射する視線の力学をひとつずつ言葉へと置き換えていく、トリッキーにして地道な手腕こそ、本書の白眉のひとつであるだろう。

 ところで冒頭、本書は奇妙な小説であると書いた。事実、小砂川の描く主人公たちは、たとえば、マネキン人形と、あるいは、ボノボと容易に心を交わしてしまう奔放な想像力の持ち主である。だが、それはそのまま、著者の小説が非現実的な作品である、ということを意味してはいない。著者は、本書中にこう書いている。「だって、想像のいっさい含まれていない現実を生きている人間なんて、いるはずがないんだから」。程度の差こそあれ、「人間」が生きる「現実」の内部に、「想像」の領分は確かに存在する。「人間」は「想像」に心を傷付けられ、「想像」を心の支えとしながら「現実」を生きている。一見、突拍子もない「想像」上の出来事が描かれていても、ここに著者なりのリアリズムは存在する。

 さて、本作での受賞は逃したものの芥川賞受賞作発表からおよそひと月が経ち、各選考委員たちによる選評が『文藝春秋』(2024年3月号)誌上に発表されている。本書に対するコメントでは、著者の筆力を認めながらも、とりわけ後半の展開における瑕疵の指摘がやや目立ったように思われるので、この点に触れて終わりたい。

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