第170回芥川賞候補5作品を徹底解説 2度目のノミネートが多い中での注目作は?

 2024年1月17日(水)に第170回芥川賞が発表される。候補作は以下の5作品(50音順)。

・安堂ホセ『迷彩色の男』(『文藝』秋季号)
・川野芽生『Blue』(『すばる』8月号)
・九段理江『東京都同情塔』(『新潮』12月号)
・小砂川チト『猿の戴冠式』(『群像』12月号)
・三木三奈『アイスネルワイゼン』(『文學界』10月号)

 初ノミネートの川野氏を除き、いずれの候補者も2度目のノミネートである。以下、各作品を具体的に紹介していく。

安堂ホセ『迷彩色の男』(『文藝』秋季号)

〈16時30分。/血まみれになったいぶきが誰かに発見された。〉

 前作『ジャクソンひとり』(2022年)に続く2度目のノミネート。

 クリスマスイブ前夜、「ファイト・クラブ」という「クルージング」(男たちが裸になり回遊し、互いに惹かれ合えば、個室でセックスする)施設の個室から、いぶきというアフリカ系アメリカ人と日本人の血を持つゲイが、差別的な文字を体に切り刻まれ、血まみれの姿で発見される。自作のポルノビデオを売って暮らしていたいぶきに、暴行を加えた犯人は混乱に乗じて逃走した。

  いぶきと同じく26歳で、ブラックの流れる日本人同士として惹かれ合い、彼と以前から関係を重ねていた「私」は、事件現場に立ち会っていたが、犯人の目星は付いていない。自身がゲイだと知らない会社関係者に事件との関わりが知られないか不安に思った「私」は、徐々に捜査状況を探り始める。そして調査のなかで「私」は、ある男と出会い、親密な関係を持つようになる。その男が「迷彩色の男」だとは知らずに。

 タイトル「迷彩色の男」の意味は、作品を読みさえすれば判るので、ここでは明かさない。基本的には、何者かによる密室での凶行の真相解明、がストーリーの大筋である。この意味で前作の持ち味であった、どこに連れていかれるのか最後まで気の抜けないような型破りで荒唐無稽な語り口は本作では落ち着き、謎の解明というひとつのゴールに向け、まとまりのある作品になっている。

  とはいえ、問題の犯人については、おおかたの読者が作品中盤に察しが付いているだろう。無論、最初から本作はミステリーを標榜などしていないのだから当然である。エンタメにしない、という態度をこそ重く見たい。そうした大筋の物語の随所に挟み込まれる、作者ならではの洞察も本作の大きな魅力である。

川野芽生『Blue』(『すばる』8月号)

〈「人魚姫はずっと、海の上の世界に憧れてたんだよね。自分が本当にいるべき場所はそこだと思ってたわけ。自分は本当は人間のはずなのに、間違って人魚に生まれちゃったと思ってるわけ。〔……〕」/はじめて『人魚姫』の物語を読んだときから、真砂はそう感じていたように思う。〉

 歌集『Lilith』(2020年)や掌編集『月面文字翻刻一例』(2022年)などの著作で知られる著者が初ノミネート。

 冒頭に置かれた戯曲風のパートを除けば、本作はおおまかにふたつのブロックから構成される。まず作品前半で描かれるのは、トランスジェンダーの真砂を含む5人の演劇部所属の高校生が中心となり、文化祭で自身らが現代的な本案を施した「人魚姫」(『姫と人魚姫』)の上演を目指す場面である。主役となる人魚姫を演じるのが真砂だった。そして作品後半では、それからおよそ3年後(コロナ禍を経て)、彼女らが久々に再集合し、母校の学生と共に戯曲『姫と人魚姫』の再演を試みようとする場面が描かれていく。このとき真砂は眞靑と名を変えており、「女の子」として生きるのを辞めたと友人らに告げる。

 まず、ファンタジー文学研究者でもあるという作者だけあり、議論する作中人物らの口を借りて随所に挟み込まれる童話「人魚姫」に対する現代的かつ批評的な再解釈に読み応えがある(ちなみに、作者の近著であるエッセイ集『かわいいピンクの竜になる』で、その古典的物語に対する批評性は惜しみなく展開されている)。

  その上で、作品冒頭に引用される、ある作中人物が書いた「戯曲」に書かれた次のような一文に注目しよう。「陸が海のようにはてしなく続いているのではないことを人魚姫は知った。いな、陸は広大だが、人はその上に数多の境界線を引き、その線を踏み越えないように、縮こまって生きているらしかった」。果てなく伸びやかな「海」と違って、「境界線」が張り巡らされた「陸」は、窮屈で「人魚姫」には生きづらい。

  特集「トランスジェンダーの物語」に寄せて発表された本作は、現実においてトランスジェンダーが乗り越えを強いられている複数の障壁を指し示してくれる。とはいえ、前後半ともに戯曲の上演に向けてストーリーが展開されながらも、その肝心の上演場面を描かれない点に明らかなとおり、本作の物語は、感傷的で過剰な「ドラマ」化を周到に排している。静謐な、しかし人肌の、行きて帰りし物語だと思う。

九段理江『東京都同情塔』(『新潮』12月号)

〈「見て。東京+都、同情+塔。語の構造はシンメトリーだし、音的にも綺麗な韻を踏んでいて、刑務所にふさわしい適度な厳しさも含んでいる。これだけしっかりしていれば、きっとバベルだって崩れはじない。もうこれ以外は考えられない。シンパシーなんちゃらなんて、比較にもならないじゃない? 骨組みがガタガタで、ホモ・ミゼラビリスだって安心して住めない。少なくとも私は住めない。」〉

 前作『School Girl』(2022年)に続き、2度目のノミネート。

 本作が描くのは、ザハ・ハディドの国立競技場案が白紙撤回されずに建築され、2020年の東京オリンピックがコロナ禍の煽りを受けながらも延期されずに開催された、ここではない日本の、2030年の姿である。AI-builtと呼ばれるAIの普及した未来、犯罪者は、幸福学者のマサキ・セトの提唱により「ホモ・ミゼラビリス」(「同情されるべき人々」)として社会的に包摂すべき存在だと捉えられていた。

  ゆえに、AIにより同情すべきと判断された犯罪者は、劣悪な刑務所ではなく都心のタワーマンションさながらの建物で不自由なく暮らし、幸福を享受することを許される。そうして建築家の「私」(牧名沙羅)の設計で建てられたのが、その新たな収容施設「シンパシータワートーキョー」、通称「東京都同情塔」である。

 前作の「School Girl」が母娘の双方向的な視線の交錯を描いていたのと同様、本作でもまた「私」(牧名沙羅)の視点を中心としながら、他方に彼女の伝記を書きながら東京都同情塔の職員として働く「僕」(東上拓人)の視点が組み合わされる。主人公の建築家の「牧名」(Machina)という名前からしてそうであるとおり、タイトルの「トーキョートドージョートー」という(作中人物の言葉を借りれば)「間延びした音のリズム」とは裏腹に、多くの企みに満ちた緻密な機械、あるいは精巧な建築物のような小説である。

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