『小説版 ゴジラ-1.0』で描かれるクライマックスの真相ーー黒い雨と黒い痣が意味するものは?

 11月3日に公開されて、8日目で観客動員が100万人を突破した映画『ゴジラ-1.0』。銀座の街を踏み潰して歩き回り、熱戦で国会議事堂を吹き飛ばしたゴジラの破壊力に、もしも本当に現れたらと恐怖した人も多そうだが、山崎貴監督が自ら執筆した『小説版 ゴジラ-1.0』(集英社オレンジ文庫)を読むと、スクリーンから伝わってくる迫力とは別のゴジラの怖さがうかがえて、大団円を迎えた映画のその先が気になってくる。

 映画『ゴジラ-1.0』にいくつもある素晴らしいポイントで、ゴジラの怖さに並ぶきらめきを放っていたのが、主演の神木隆之介が見せた演技だ。映画の冒頭、敷島浩一という名の特攻隊員として登場した神木は、自爆して死ぬ恐怖を克服できず、零戦で特攻する任務から逃げ出して、不時着基地が置かれた大戸島へと降り立った。

 故障したらしいと言い訳のような報告をしたものの、点検した整備兵たちには特攻から逃げたことがバレていた。弱虫と嘲られているのだろうと思いながらも、表面的には取り繕ってみせる敷島の落ち着かない雰囲気が、神木の表情や仕草にしっかりと現れていた。

 映画を見れば、そうした内心の葛藤も演技から感じ取れるが、どうしてそのような行動に出てしまったのかといった理由は、特にセリフで語られていない。これが、小説にある「生き延びさえすれば、母親との約束は果たせる」という敷島の内心を描いた一文を読むことで、そういう理由からだったのかと理解できる。

 夜になって島にゴジラが上陸した際に、整備兵たちを率いる橘から零戦の20ミリ機銃で撃ってくれと頼まれ、コックピットに座ったままでは良かったものの、そこでなぜか躊躇して撃たなかった時の神木の演技には、特攻から逃げ出す弱虫らしさにあふれていた。これは撃てなくて当然だと感じさせる演技だったが、小説版には、「こんな化け物に機銃を撃ち込んで無事でいられるわけがない」という敷島なりの判断が添えられていて、怖さに手がすくんだだけではないことがうかがえる。

 「そもそもこの生き物は、人間がどうこうしていいものじゃない」。ゴジラに対するそんな心情も描かれていて、禍々しさや猛々しさの奥にある神々しさめいたものを感じさせる。この畏敬ともいえるゴジラに対する人々の思いは、すべてが終わってゴジラを撃退した際に、関わった人たちが海中へと消えていくゴジラに対して、自然と敬礼をしたところに現れている。

 東京を破壊し何万人も殺戮した憎き敵なのに、どうして敬礼するのかと映画を見て思った人もいるだろう。小説では、そんな敬礼を「最大の鎮魂の表出だった」と説明している。「思えば、この獣は人間の愚かさによって焼かれ、その姿形を醜く変容させられた被害者ともいえる」。

 つまり敬礼は、ビキニ環礁における原爆実験で体を焼かれたゴジラが、再生能力を発揮しながらも放射性物質の影響で変容し、巨大化してしまったことを人間のせいだと反省していることの現れだった。

 推測はできても、こうして監督自身の筆によって書かれた説明を読むと、映画への理解がグッと進むところが多い『小説版 ゴジラ-1.0』。その説明は、特にセリフによって言及されてはいなかった映画のシーンが実は持っていた、背筋の凍るような恐ろしさをくっきりと浮かび上がらせる。

 東京湾から上陸したゴジラは、今の有楽町マリオンが建つ場所にあった日劇を破壊し、隣にあった朝日新聞本社を尻尾で粉砕したところで、国会議事堂前に配備された戦車から砲撃を受ける。振り返ったゴジラは、熱線を吐いて粉砕というよりも蒸発といった言葉がふさわしい大破壊を行う。『シン・ゴジラ』のゴジラが出す放射線流も一体を炎の海に変えたが、『ゴジラ-1.0』の熱線は、それこそ核兵器の爆発を思い起こさせた。

 小説ではここで、ガチャガチャとせり出したゴジラの背びれが「一斉にガシャリと音を立てて体に食い込んだ。インプロージョン方式の原子爆弾を思わせるその動きの直後」に熱線が放たれたと書かれている。映像ではキノコ雲が示唆していた核兵器に匹敵する破壊力を、言葉で直接示した格好だ。

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