「マンガとゴシック」第13回:「河童の斬られた片腕」の謎——水木しげる『決定版 日本妖怪大全』
水木しげると折口信夫——妖怪の棲むオノマトペ・ワンダーランドへ
「見えない」はずの妖怪を感知するための能力を水木はしばしば「妖怪感度」と呼び、そのアンテナはまず大体が「音」に反応するのだとした。『決定版 日本妖怪大全』を繙いてみても、岸涯小僧(がんぎこぞう)、シズカモチ、じゃんじゃん火、ばたばた、竹切狸、畳叩き、天狗倒し、鳴釜など、音にまつわる妖怪が頻出することに気づく。鳥山石燕は『画図百鬼夜行』の跋文で、「詩は人心の物に感じて声を発するところ、画はまた無声の詩とかや。形ありて声なし。」と書いている。いわば妖怪画はあくまで絵であって音はつかないことを強調しているわけだが、水木は明らかに「音」こそが妖怪現象の発端であると考えているから「音」に関する記述が多くなる。
例えば本書で、水木は以下のように述べている。「子供のとき、万物が動くのをやめたのではないかと思われるほど静かな夜に外に出ると、はっきりした音ではないが、奇妙な音ともつかぬものが聞こえ、まるで異次元の世界へやってきたような気分によくなったものだ。シズカモチも、そのような気分がある意味で定形化されたものではないかと想像している。」(346ページ)。夜の静寂、そしてどこからともなく聞こえてくる得体のしれない「音」が、無気味な妖怪の姿を生みだしていく。1970年代末にビクターが「音で見る」をコンセプトにしたオリジナル・コミック・シリーズの一つであり、森下登喜彦の前衛的な電子音&水木しげる監修のヴィジュアルで表現されたLP『妖怪幻想』は各トラックのタイトルが妖怪名であるから、音=妖怪という想像力の延長線上にあることが分かる【図4】。
音といえば、妖怪は変な音=名前の宝庫である。『決定版 日本妖怪大全』を覗いてみても、樹木子(じゅぼっこ)、たたりもっけ、ナンジャモンジャ、ネブッチョウ、オバリヨンなどなど変わったものが多い。あるいは妖怪にはオノマトペ(擬音語)から名付けられたものも少なくない気がする。そのためか、豊かなオノマトペの表現力を持つ者は「妖怪感度」も高いらしい。以下は水木がタテクリカエシという妖怪を紹介する文章である。「夜道を歩いていると、向こうからスットン、スットンと音を立てて、手杵のような形のものがやってくる」。また類似のタゴという妖怪を紹介する時には「山の斜面の崩れたようなところを、ザリザリと転がってくる」と書いている。
何かが転がってくるとき、「スットン、スットン」や「ザリザリ」と表記することは一般的にありえない。しかしこれは民俗学者・詩人の折口信夫の才能と比すべきものかもしれない。冒頭、死者が目覚める時、石棺にしたたる水の音を「した した した」と表現することに始まる折口『死者の書』はオノマトペ・ワンダーランドなのである。NHKで放送された『100分 de 日本人論』(2015年1月2日放送)で本書を取り上げた赤坂真理は、「ぽっちり」(目を開ける様子)、「ほほき ほほきい」(ウグイスの声)、「つた つた つた」(足音)、「あっし あっし」(魔除けの足踏みの声)、「しっと しっと」(馬の歩く音)などを他に挙げている。
これを受けて中沢新一はこう述べる。「擬音語、擬声語というのは意味になる前の音じゃないですか。物体が立ててる音と、人間の意味のちょうど間の言葉で、人間が意識を持ってるんだけどそれが物質の中に入っていくっていう。特にこの冒頭部なんか石棺のなかにいるんですね。死者ですから。石棺の中にいて水が垂れてくる音を聴いてるんですが、自分が死んでるから意識と物質がいっしょになったような状態を作り出しているんです」。そしてオノマトペは意識と物質のまどろみの表現という中沢の指摘を受け、松岡正剛は「もの音」「ものものしい」「もの凄い」といった表現にある「もの」に注意を促す。「霊」と書いて「もの」と呼んだように、「もの」は単なる物質ではなく霊的なものをはらんでいるのである(私の方で付け加えるなら「もののけ」も考慮に入れたい。また「鬼」も「もの」と読まれることがある)。
そして斉藤環は、こうした豊かなオノマトペが保存された現代の日本文化としてマンガを取り上げるのである。意味と無意味の中間にあるようなオノマトペには、単なる「言語情報」に還元される以前の自然の「ものものしさ」、すなわち妖怪成分が残っているのだ。折口と比較して考えるに、擬音語・擬態語に抜群のセンスを見せた水木が妖怪マンガの道に進んだのは必然のように思えてならない(水木マンガにおける「フハッ」やビンタするときの「ビビビビビビン」といった有名な擬音や、荒俣宏との対談で飛び出た「ゲラゲラ文明」も忘れられない)。
片手を切り落とされる妖怪——河童と戦争体験
先ほど「音」にまつわる妖怪を『決定版 日本妖怪大全』から取り出して列挙してみたが、895体もいるから読み進めるうちにクロス・レファランス(相互参照)がなされ、それぞれ別々と思われた妖怪同士に類似が発見され、脳内で徐々にグルーピング化されていく喜びが生じるのも本書の魅力の一つだ。ほとんど水木がプリミティヴな衝動(学問的体系に束縛されないアマチュア・コレクター特有の狂い方)で蒐めて五十音順に並べた妖怪たちを、読者がより知的に分類していくメタ博物学の快楽が残されているのである。
そうした読み方をしていて私が特に気になったのは、妖怪が「片手を切断される」というモチーフが頻出していたことだった。渡辺綱が鬼の手を切り落とした伝説などを筆頭に、本書だと長崎の水虎(すいこ)、化け猫、川熊、コシュンプ、狸伝膏(ばけものこう)などがあり、どうも河童の類が多く、中には斬られた片手を返してほしいと嘆願するものも少なくなかった。調べてみると、河童が悪さをして、手を切り落とされ、それを返してもらう代わりに秘伝の膏薬の製法や、もう悪さをしませんという侘び証文を引き換えに提出する、という河童懲罰譚のような類型があるようだ【図5】。
しかし、河童の手を切り落とすと、それを取り戻しに来るというパターンに関して、どういった解釈が可能なのか? 最寄りの図書館で河童にまつわる書物を十冊ほど眺めてみたが、民俗学プロパーではない私の貧しいリサーチ力ではそれらしき記述には出会えなかった。そこで、J・G・フレイザー『金枝篇』(国書刊行会)の訳文校正のバイトをやる傍ら始めたTwitterアカウント「金枝篇bot」で、人類学や民俗学に詳しいフォロワーさんたちに当該テーマについて質問してみた。すると様々な回答が怒涛のごとく寄せられたので、いくつか紹介してみたい。
回答A「切手という姓があるそうで、これは河童の腕を斬った一族で、河童退治つまり治水に関わる仕事をしてきた人々という意味があるそうです。妖怪の腕を斬るというのは妖力を封じ込める意味合いがあるのかも」
回答B「物の怪や妖怪の概念が成立し始める平安時代に、都の治安を維持する検非違使が罪人の手を切り落とす刑を執行していたという辺りからの調査かなあ」
回答C「切り落とした腕はたいてい討伐・撃退・封印の証拠であると同時に怪異本体との霊的リンクを保つ依代みたいな扱いになりますよね。異界に居る本体と繋がってるから、所持により呪物的加護が得られたり本体が取り返しに来たりする」
……などなど、私のまったく知らなかった知識ばかりで(Twitter全体に概ね0.5~1%くらい生息する稀有な)ネット賢者たちの教養に驚くと同時に他力本願もたまにゃ悪くないなと思ったりもしたが、どうもまだ説明しきれていない感じがある。しかしようやく、待ってましたとばかりに怪談作家の蛙坂須美(アスカスミ)さんから非常に説得力のある決定的ベストアンサーを得られたので以下に引用したい。
妖怪の身体の一部を切り落とし持ち帰るモチーフは日本以外の神話や伝説にも見られる(たとえば『ベオウルフ』におけるグレンデル退治の逸話)ものですが、その場合、決まってそれを妖怪側が「取り返しにくる」という部分が味噌なのではないかと思っています。日本では河童の腕を切り落とすことが河童軟膏等の起源説話になっています。これは自然から人間への富の流入を表していると思われ、妖怪の腕を切り落とす(そしてそれを持ち帰る)説話は富の移動の隠喩になっているのではないかと。たぶんですが、この富の流入っていう要素が失われると、妖怪の腕だけが出てきて人を驚かせる(たとえば便所から腕が出てきて尻を撫でる「カイナデ」というおばけ)というタイプのものができるのではないかと。
別役実が指摘したように、元々妖怪は分類以前の「その他大勢」すなわち自然そのものであるとするならば、河童の片腕の切断およびそれを返すことで見返りに得られる膏薬の製法は、自然界から人間界への富の流入という説は納得のいくものだ。しかし、そもそもなぜ切断される部位は「手」なのだろうか。これに関しては、「河童」を「鬼」に置き換えて、suigan氏がグッドアンサーを寄せてくれた。「岩手県の三ツ石神社にある巨石には鬼の手形が残されており、この地に災いをもたらす鬼を神が捕え、二度と来ないよう手形を押させたという伝承がある。岩手の名の由来です。これは災いを回避する為の担保。妖怪の片腕を斬る話も同型に属するように思います。手は古今東西で約束の為の重要な部位であった。」
最後に一つ、誰でも思いつくようだが絶対外せない解釈を付け加えるなら、手を切断された妖怪は水木しげるその人だとも言える。21歳で出征した南太平洋のラバウルで、マラリアで寝たきりになっていた水木は敵から爆撃を受け、出血が止まらない片腕を麻酔なしで切り落とされた。それゆえ、片腕を切り落とされ、それを取り戻して再びくっつける河童を描くとき、水木が自らを重ねわせていたことは十分に考えられる。「水木さんにとって妖怪はリアルなんです」という高弟・京極夏彦がどこかで言っていた言葉も、戦争体験を踏まえるとさらに説得力を帯びるのだ。そういえば、『河童の三平』は水木本人がもっとも気に入っていた作品だった。
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