杉江松恋の新鋭作家ハンティング 注目の芥川賞候補作、市川沙央『ハンチバック』の衝撃
読んだ瞬間から同じようには生きられなくなる。
読者によっては、それほどの衝撃を味わうのではないかと思う。
第128回文學界新人賞受賞作であり、このたび第169回芥川龍之介賞候補となった市川沙央『ハンチバック』(文藝春秋)はそれほどの作品である。
最初のページをめくると、htmlのタグが付された文章がある。文頭には〈head〉と記される。〈title〉タグで挟まれた題名には『都内最大級のハプバに潜入したら港区女子と即ハメ3Pできた話(前編)』とある。まあ、つまりそういう内容だ。都合のいい性夢が綴られているのを鼻白みながら読んでいくと、それがWordPressに打ち込まれた原稿であることがわかる。語り手の〈私〉が書いているコタツ記事、つまり実地取材を伴わず、ネット上の情報渉猟とコピー&ペーストででっちあげられた安文章なのだ。取材に行けるわけがない。中学2年生のときに教室で意識を失ったのを手始めに、30年近くの間〈私〉は「歩道に靴底を引き摺って歩くことをしなくなって」いるのだ。しなくなった。あるいは、できなくなった。
ミオチュプラー・ミオパチー、当人の言葉を借りれば「遺伝子エラーで筋肉の設計図そのものが間違って」いることを原因とする筋疾患は〈私〉の背骨を「右肺を押しつぶすかたちで極度に湾曲」させ、呼吸系統にも甚大な影響を与えている。人工呼吸器を使うのは就寝時だけだが、放置すれば肺に貯まって呼吸を困難にする痰を処理するための吸引器は常に手放せない。
〈私〉が暮らすのは、自身が所有するグループホームの一室だ。他にも数棟のマンションから家賃収入がある。すべて親が遺してくれたものだが、〈私〉には相続人がいないため死後は全て国庫行きになる。障害を持つ子のために親が遺した財産がそうやって国のものになるのはよくあることなのだという。〈私〉は書く。
——生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりと溜飲を下げてくれるのではないか?
主人公は自分を笑ってみせることで読み手の警戒心を薄めさせる。自分の中に他人を踏み込ませることは本来、相当な痛みを伴う行為である。他人は常に土足で踏み込んでくる。そこがどんな瀟洒な住まいであろうと、取り扱いに注意が必要な調度品が置いてある場所であろうと。踏み込んで、取返しのつかない失態をしてしまった後でようやく、おや、ここは他人の住まいで、自分が好き勝手をしてはいけない場所だったようだ、と気づくのである。そうした無自覚な暴力行為の当事者に自分たちがなりうるのだということを〈私〉の語りは暴き立てるのだ。
どきりとする瞬間が私にもあった。湾曲した脊柱を持ち、呼吸という基礎的な生命活動にも困難を感じながら生きている〈私〉は重量を伴う紙の本を憎悪している。「目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、——5つの健常性を満たすことをみたすことを要求する読書文化のマチズモ」「その特権性に気づかない、『本好き』たちの無知な傲慢さ」と指摘され、自身が常に見ないようにしている領域からの糾弾に虚を衝かれたのである。健常者による足切りが行われることでこの社会は成り立っている。その行為に自身も参加していたのである。