ドラマ化で話題『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』 原作エッセイとの違いは?

「わたしが高校生だったころ、学校から帰ったら、母が大騒ぎしていた。なんだ、なんだ。一体どうした」

 こんな文章で始まるのは、『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』(小学館)だ。高校生にとっては、けっこうありがちなシチュエーションだろう。その年齢の子どもを持つ親は、常に何かしらに騒いでいるものだ。

 だが、このエッセイ本の著者である岸田奈美氏(以下敬称略)の場合はちょっと違う。彼女の弟はダウン症で、その日は弟が「ビタ一文持っていなかった」のにペットボトルのコーラを持っていたのだから。考えられる可能性は万引き。岸田母が慌てるのも納得だ。しかも、子どもが何かやらかした可能性がある場合、パートナーに相談したくなるところだが、岸田家の父親はすでに他界している。色々と状況が複雑なのだ。

 だからと言って、本書は御涙頂戴作品ではない。確かにヘビーだし、辛さや悲しみといった感情を包み隠さず書いている。しかし、そういった気持ちや状況を悲劇の中の喜劇と捉えて書いているのだ。

父は他界、母は下半身麻痺、弟はダウン症。でも可哀想なんかじゃない

 本書は、岸田奈美がnoteに綴ったエッセイを一冊にまとめた本だ。すでに書いたが、彼女の家族は、弟がダウン症、母親は下半身麻痺、父親は岸田が中学生のときに他界している。彼女の人生はハードモードだ。自己紹介で家族の話を振られたら、言葉に詰まってしまうだろう。岸田はそれをわかった上で、「一周回って面白い」と考える。

 筆者が彼女の存在を知ったのは、“おっぱいを甦らせるブラジャー”に対する驚きと感動のあれこれを、これでもかというほど力説した「黄泉の国から戦士たちが帰ってきた」だった。コスパ重視で無頓着に選んだブラジャーを無頓着に着用していた結果、本来なら胸であるべき肉たちが四方八方に散ってしまったところ、ブラデリスニューヨークの矯正ブラジャーをつけたところ見事な巨乳になった、という内容だった。

 この記事はとんでもなくバズっており、授乳という大役を終えてしぼみまくった胸に開放感と労り重視でブラジャーを選んでいた筆者の胸にも思い切り刺さった。筆者も、再び戦士たちと再会したい……! noteを読んだ瞬間、最寄りのブラデリスニューヨークの店舗を調べ、新宿行きの小田急線に飛び乗った。エッセイの中で岸田が「気がつけば、3万円使っていました、ブラジャーに」と書いたように、筆者も3万円支払っていた。岸田奈美というエッセイストのファンになったのはその時で、彼女の家族のことを知ったのは後になってからだった。だから、彼女のことは、圧倒的な文筆力を持つ面白い人、という認識だった。

 そして、それは『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』を読んだ後も変わらない。彼女の人生はハードモードだが、エッセイの中の彼女を一度も可哀想な人だと感じたことはない。

映像で岸田家を見るということ

 『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』はNHKでドラマ化され、5月14日に初回が放送された。

 早速見たのだが、ちょっと意外な仕上がりになっていた。そこにいるのは筆者が知っている岸田家ではなかったのだ。

 エッセイは岸田奈美の一人称視点で書かれている。面白い話もあれば、胸が押しつぶされて涙を堪えるのが大変な話もある。だが、そこに書かれているのは、どんなときでも家族を思う岸田の姿であり、岸田のフィルターを通して表現された母親や弟、父親の姿だ。

 とこが、ドラマになるとひとりひとりがストーリーテラーになるため、どうしても、落語的エッセイのテンポが崩れ、しんみりしてしまうのだ。原作となったエッセイ本を読んでいれば、どの話がどの部分に該当しているのかがわかる。筆者は、原作と照らし合わせつつ視聴したのだが、笑えるはずの部分はことごとくトーンダウンしてしまっていた印象を持った。第一話は、原作のオープニングを飾った「弟が万引きを疑われ、そして母は赤べこになった」を中心に構成されている。コンビニでペコペコと頭を下げる母親の姿を赤べこと比喩して笑いを誘いつつ、弟の成長に感動し、応援する内容だ。文章だとコミカルだが、映像にすると笑うより見守りたくなってしまう。

 映像コンテンツは、「語るより見せろ」と言われるが、岸田の人生を映像化すると波瀾万丈さが際立ってしまうのかもしれない。エッセイ本『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』は、笑って泣けると評判だが、映像化すると泣ける部分がどうしても前に出てきてしまう。第一話では、岸田エッセイを映像化する難しさを垣間見た気がした。

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