「マンガとゴシック」第10回:楠本まき『KISSxxxx』論 後篇——日常という名の「不思議の輪」
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の影響
前篇では、楠本まき『KISSxxxx』を「日常系ゴス」だの「ハッピーゴス」だの滔々と語ってきたが、今回はそのあたりをもう少し深く考察してみたい。つまりマーガレット・コミックス(ワイド版)第3巻の「作品かいせつ」にある、以下の頭を悩ませる文面をしっかり考慮に入れるということだ。
「巻末の『蟹のカノン』は、D. R. ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』を読んで以来ずっとかきたかったもので、『KISSxxxx』はこれをかくためにかいていたようなものです。蟹・かめの・亜樹良という登場人物の名前もそこからとりました。また「カノン」という概念は、『KISSxxxx』全体のテーマでもあります。」
難解をもって鳴る『ゲーデル、エッシャー、バッハ——あるいは不思議の輪』(以下『GEB』)から登場人物の名前を採用するほど『KISSxxxx』が影響を受けているという、衝撃の事実が明かされる。ゲーデルの論理学と、エッシャーのだまし絵と、バッハのカノンに共通する構造からアナロジー的に「不思議の輪」という現象を捉えた名著である。マーガレット・コミックス(ワイド版)4巻にでてくる「無限に上昇するカノン」というフレーズも『GEB』冒頭の小見出しからの引用で、そこはちょうど「不思議の輪」現象が要約されているページになっており、以下のようにある。
「「不思議の輪」現象とは、ある階層システムの階段を上へ(あるいは下へ)移動することによって、意外にも出発点に帰っているときの現象である。」
ざっくり言えば、ある種の再帰構造やループ性について書かれた本なのである。エッシャーの「上昇と下降」(1960年)がホフスタッターの言う「不思議の輪」を視覚化したものとして、たぶん一番理解しやすいだろうか。階段を何段も何段も上がっているはずが、あるいは逆に下がっているはずが、最終的には不思議と始発点に戻っていくパラドックス。
おそらく、楠本はこの本の中心議題であるゲーデルの難解な超数学や論理学のくだりに感銘を受けたわけではなく、序論の「音楽=論理学の捧げもの」のバッハの記述を参照したと思われる。それに加えて、各章のはじめにインターチャプター的に挿入される「アキレスと亀」の滑稽で愉快な対話編にも影響されていて、登場人物たちはここから名前を取られている(カノンこと加納亜樹良はアキレス、かめのは亀に由来する)。ようするに『GEB』という難解な本のなかでも、リーダブルな箇所を巧みにカット&ペーストしてマンガに利用している印象なのだ(ちなみにカノン=加納亜樹良はグラフィックデザイナー・宇野亜喜良の名前の響きを模したものと思われる。楠本同様に宇野はビアズリーから多大な影響を受けていて似ている点も少なくないため、この名づけはデカダンでアラベスクな自らの絵に対するマンガ家自身による自己言及のようになっている)。
ホフスタッターの超工学的知性から析出された「不思議の輪」現象を、もともと詩人気質である楠本がポエジーとして部分的に切り出し、日常系ゴスの話に組み替えてみせたのが『KISSxxxx』ではないか、と仮定してみる。するとこの物語は、常に「カノンとかめのは好き合っている」という単一の主題が微妙な差異を伴いつつ模倣・追複され、不思議と最後は同一の始点に戻っていく、ある種の再帰構造と取れないこともない。
「蟹のカノン」を語る前に、そもそも楠本自身が「『KISSxxxx』全体のテーマ」とさえ言うカノンとは何か? ある楽曲の主題が、異なる時点から始まる同一の声部によって次々と模倣されていきポリフォニーをなす楽曲構造で、「かえるの歌」のような輪唱もその一形式である。カノンにも色々な種類があり、最も難解な模倣とされるのが「蟹のカノン」で、繰り返される主題の方が、後ろから奏される。これが逆向きに進む蟹の横這いに似ているというので、その名が付いた。楠本はマンガでこの逆行カノンを再現して見せたのである。
具体的に作品を見てみたい。まず、散歩するかめのとカノンが描かれ、取り留めもない会話がなされる。しかし亀との遭遇を端緒にして反転して、前半と同じ会話と同じコマ割り(絵は若干の差異が認められる)で今度は逆行して描かれていき、最後は振り出しに戻る。2009年の『KISSxxxx』集英社文庫版あとがき(のち愛蔵版第2巻に再録)で、萩尾望都もこれに注目している。
「デジャヴを感じさせる不思議な構成で、ある意味、エンドレスだ。
これはきれいなイマジネーションだ。
ああ、これが、楠本まきの世界の理想なのかな。
穏やかで、余計なものが無くて、たいせつなものが少しだけあって、それで豊かな世界。精神のニルヴァーナ。」
「デジャヴ」で「エンドレス」な日常が「世界の理想」という意味では、ゼロ年代以降しきりに言われるようになった「空気系」や「日常系」の始祖のようにも、『KISSxxxx』は映る。しかし『けいおん!』のような作品とかなり異なるのは、日常そのものに美が充溢し、そこはかとないセンス・オブ・ワンダーさえ『KISSxxxx』にはあることだ。ホフスタッターの言う「不思議の輪」に惹かれるほどには変わり種でセルフ・リファレンシャルな、おまけにニルヴァーナ志向の日常系だと言える。
しかし『GEB』に依拠しながらも、『KISSxxxx』はそれとは別種の輝きをもったマンガにも思える(だからこそワイドコミックス版だけでも100万部を超えるヒット作になった)。楠本の「蟹のカノン」は超絶技巧的な小品だが、ここで過度に働いているホフスタッター流の分析的・構成的・工学的な知性は、『KISSxxxx』というマンガを全体通して読む喜びとは大きく異なっている。緻密に構築された『Kの葬列』のようにプロット中心ではなく、キャラクター中心に気儘に駆動していく『KISSxxxx』というマンガ全体の楽しさからは、著しく浮いている。蟹の硬い甲殻から身をほじくり出すように、もっとフレキシブルな、知性ではなく感性としての「不思議の輪」を、このマンガは描いていたのではないか。「蟹のカノン」は見事だが、あまりにもこのマンガの描く日常に対する冷静なメタコメントになっていて、要約的・公式的すぎる気がした。