Chim↑Pom卯城竜太が問う「アクション」の現在 大著『活動芸術論』の「ダーク」で「ディープ」な魅力に迫る
Chim↑Pomの叔父さん? DOMMUNE宇川直宏
――坂上忍がDOMMUNEを知らなかったと言ってたのを思い出しました(笑)。地下に潜るにもセンスが必要ですね。ところでChim↑Pomにとって会田誠さんがお父さんだとすると、宇川直宏さんは叔父さんという感じがするんですよね。『活動芸術論』にも宇川さんの名前は、リスペクトをこめつつ度々出てきます。ただ宇川さんはDOMMUNEで「『鬼畜系カルチャー大検証!』村崎百郎が蘇る!」を放送したり、悪趣味文化に半身くらい突っ込んだ存在だと思います。卯城さんは悪趣味を否定しているので、宇川さんのどの面をリスペクトしているのか逆に気になりました。
卯城:Chim↑Pom全体にはそこまで関係はありませんが、宇川さんの活動をずっと見てきた僕と林(靖高)にとっては、たしかに叔父さん的影響はあるかもですね。だから、DOMMUNEで悪趣味特集をやるのは理解できます。そういう世界の好き嫌いは問題ではないし、何故そういうカルチャーが台頭していたかの理由は知っているので。でも今、僕にはそれを語る気持ちがないというか。90年代の悪趣味文化が出てきた背景って、やはり戦後民主主義が支えてたと思うんですよ。エクストリームな個を公共の一環として求めていた時代であり、リスクがリターンとして強かった時代でもある。でもその土台がもうないと思っていて、悪趣味文化を昔と同じように語るのはやはり無理で。それをするくらいだったら、大正時代を掘り起こす方がはるかに今の時代に見合っているなと。
――なるほど。『活動芸術論』にも書いてある通りで、公の規制とSNSでの市民同士の相互監視が強まっている時代に、エクストリームな個であり続けることは確かに難しい。ところで、卯城さんが『公の時代』で宇川さんの特殊能力を「万物博愛力」と見事に評していて、それは凄く分かると思ったんですよね。イベント終わったあとの「キミ最高だったよ!」というあの感じ、「場」を作る人間特有の爽快さというか。『活動芸術論』を読んでいて、どんどん色んな人が卯城さんのところに集まってきて「場」がうまれるのは、やはり宇川さん的な才覚なのではないかなと思いました。
卯城:でも宇川直宏という受け皿は、僕より遥かに大きいですよ。クロスジャンルそのものの存在ですし、だから選挙で選べるならそれこそ文化庁の長官とかに推したいくらいです(笑)。とは言え、節操がないわけではもちろんなくて、あの人のこだわってることってつまりは「オルタナティヴ」じゃないですか。一方でメインストリームなものも大好きだけど、それも捻れた博愛性だなとは考えていますが、でもまあ定義から逃げ続けるはっきりしなさみたいなものはありますよね。
オカルトとプラネタリー
――なるほど。はっきりしていないって、すごく重要な気がします。というのも、『活動芸術論』にチラッと名前が出てくる人智学者のルドルフ・シュタイナーも、20世紀初頭に人類学とか精神分析学とかアートとか畑違いの人を、一斉に引き合わせる集会を主催してたんですよね。だからオカルティストとか、そういうワケが分からない人、曖昧性・許容性の高い人間のまわりに人って集まるよなと。それって専門知の人には多分できないと思っていて。
卯城:人智を越えてるものがないと、そうはならないですよね。専門的なものは何かしら排除してしまうから。それこそ今、渡辺志桜里さんが11月にやるプロジェクトを手伝っていて、手塚マキが歌舞伎町で買った能舞台でやるんですけど、そこのこけら落としとして展覧会をやるんです。彼女が企画したグループ展なんですけど、テーマが能の翁っていう、能にして能にあらずと言われてる別格の神事があるんですよね。その演目を読み解いたものにするんですけど、認識できないもの全てを扱っているようで凄い概念なんですよね。中沢新一さんが言うには、日本は言語的な哲学が苦手だった分、それは芸能が体現してきたと。折口信夫などその筋では、翁は芸能の根源であるわけですが、つまりは日本の哲学は翁からしか始まらないっていうような考え方がある。たしかに調べても分からない、というか分かることを遠ざけるような世界観なんですよね。石牟礼道子が「言葉では現代は救えない」って言って新作能を作ったことと似てますが。とにかく、翁っておじいさんなんですけど、胎児でもあって、アカマタ・クロマタみたいな来訪神でもあって、火山や温泉にもたち現れて、宇宙の認知できない存在そのものみたいな。その神事こそが能の根本らしいのですが、受け皿が本当に半端なくデカすぎると思って。今、アートってテーマに絞ってグループ展が行われることが多いんですよ。例えばジェンダーとか、エコロジーとか。でも翁を受け皿にすると、エコロジーであれ原爆であれ水俣病であれ、全部が入ってくる感じがある。これは画期的な入れ物だなと思ったんですよね。
――『活動芸術論』を読んでるとちょいちょいオカルト的なものが出て来るんですよね。ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻がシュタイナーの人智学に影響を受けているとか、澁澤龍彥のヨーロッパ秘教主義と60年代パフォーマンス・アートの関わりとか。最後にプラネタリーの概念が出て来るじゃないですか。言ってしまえばパースペクティヴがどんどん上がっていって地球全体を取り巻く感じですが、これってオカルトな観念にも繋がっていきますよね。
卯城:「理解できなさ」ですよね。本の中で、プラネタリーに対してドメスティックって概念を僕は対置してみました。現代社会も現代アート界もグローバルとローカルを対比させて進行していますが、この二つは互いに理解できることを前提にしているコミュニケーションです。でもドメスティックというのは家庭内暴力のように、中で何が起きているのか分からない。プラネタリーと言った時には、すごくワイドになって宇宙とか細胞同士とか動植物など他の生命体など、人間の価値観や言葉では測れないものが呼応しあっている。だから「理解できない」でいいと思うんですよ。分からないことを前提にしたプラネタリーとドメスティックの対比は、ヨゼフ・ボイスによる社会彫刻がベースとした人智学のようなオカルトや、能の翁のような理解の及ぼないものにも当たり前に接近します。能なんてそれこそ幽霊や石など「人外」あっての世界ですから。分かり合うということが無くても世界は回っている。ネットで全て分かったつもりになれがちな一方で自然災害に翻弄されるような現在にとって、これはめちゃくちゃ重要な話のような気がします。
■書籍情報
『活動芸術論』
卯城竜太 著
発売日:7月23日
出版社:イースト・プレス
価格:¥3,520(税込)