漫画の発展に貢献 京都精華大名誉教授 牧野圭一の足跡

8月14日、漫画家で京都精華大名誉教授の牧野圭一が、84歳で死去した。牧野は愛知県豊橋市の出身で、日本テレビ、博報堂に勤務した後に独立。当時の政治漫画の大御所であった近藤日出造に師事した。そして、近藤の後継者として、1976年から始まった読売新聞「二面」の政治漫画で頭角を現すことになった。デフォルメが巧みで、ユーモアの溢れる作風は評判を呼び、足掛け15年以上にわたる長期連載となった牧野の代表的な仕事といえるだろう。

新しい才能の発見を目的とし行われる京都精華大学の「SEIKA AWARD 2023(セイカアワード)」にはマンガ部門もある。

 牧野は漫画家以外の活動でも、多彩な才能を発揮した人物だった。沖縄の本土復帰を祈念して1975年に行われた、沖縄国際海洋博覧会の副プロデューサーに就任。展示プロデューサーを務めた手塚治虫とともに、イベントを成功に導き、のべ349万人を動員した。

 ちなみに、沖縄国際海洋博覧会は沖縄の風景を一変させた巨大プロジェクトとしても知られる。1987年には、国営沖縄海洋博覧会記念公園が国営沖縄記念公園と名称が変更、その後2002年には沖縄美ら海水族館がオープン。沖縄を代表する観光スポットとして一定の地位を築いている。

 牧野圭一はキャラクターデザインの名手でもあった。もっとも知られている仕事のひとつが、1982年に登場した佐藤製薬の「サトコちゃん」だろう。他にも、北海道電力の「電力坊や」、でん六豆のキャラクター、キリンビールアイドルキャラクター「キリン坊や」などの仕事がある。千葉県船橋市で過ごした縁から、JR船橋駅の待ち合わせスポット「さざんかさっちゃんと福太郎」もデザインしている。

京都精華大学のマンガ学部の学生が海上保安庁のパンフレットを制作するなど、牧野の功績は漫画の分野を大きく発展させた。

 教育者、研究者としての一面もある。2006年には京都精華大学に日本初の「マンガ学部」の設立に尽力し、学部長を務めた。マンガ学部はその後、カートゥーンコース、ストーリーマンガコースなど4つのコースを擁する規模までに成長している。京都精華大学では国際マンガ研究センター長も務めた。2011年からは、京都造形芸術大学の教授に就任。一連の大学での教育活動を通じて、多くの若手漫画家を育成したことも牧野の大きな功績といえるだろう。

高知県で行われている「まんが甲子園」では企画参画・選考委員を長年務めた。

 他にも日本マンガ学会の初代事務局長、日本漫画家協会の理事などの役職を務め、故郷の豊橋市では豊橋ふるさと大使にも就任している。高知県で行われている「まんが甲子園」では企画参画・選考委員を長年務め、的確で質の高い講評でも知られた。当時の参加者の中には、牧野のコメントを懐かしむ人も多いのではないだろうか。牧野は多岐にわたる活動で、漫画界に大きな足跡を残した漫画家であった。

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