日本で神の像が作られなかったというのは本当か 目には見えない神秘が仏像の美を生み出した
『日本書紀』の欽明(きんめい)天皇十三年(552)の条に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から天皇に仏像と経典・仏具が贈られたという。仏教公伝である。 欽明天皇はその仏像を見て「仏の相貌(かお)端厳(きらぎら)し。全(もは)ら未だ曾(かつ)て有らず」と言った。見たこともない美しさだというのだが、これについて、日本では神の姿を形に表すことはなかったからだとよく言われる。日本では鏡や神木を依り代(神が宿るもの)として崇めたので、いわゆる神像は作られなかったというわけだ。しかし、そうだろうか?
この7月に刊行された『日本の美仏図鑑』(二見書房)では、冒頭に縄文時代の土偶の写真を掲載している。
「仏像は一種の人物像であるが、日本でのそれは縄文時代の土偶に始まる。土偶は数多く出土しているが、宇宙人とも言われるデフォルメした形から何か神霊的なものとして祀られたであろうことは想像に難くない」(同書「日本の仏像」より)
縄文時代には燃え上がる炎や逆巻く水のような荒々しい文様をつけた土器も作られた。大阪万博の太陽の塔の作者=岡本太郎が驚嘆した力強い造形である。
土偶や土器の形に縄文人がどんな思いを込めたのかはわからない。しかし、それを祀って祭りをしたとすれば、黙ってやるはずはない。太鼓のような楽器を打ち鳴らしたり、何か神話物語のようなことを歌いながら踊ったりしたことだろう。
ところが、声は残らない。博物館の陳列ケースに並べられた土偶や土器は何も語らない。しかし、原初の縄文の森には、人の歌声や打ち鳴らす楽器の音が響いたであろうことは間違いのないことのように思われる。