書物という名のウイルス 第14回
新しい老年のモデル――デイヴィッド・ホックニー&マーティン・ゲイフォード『春はまた巡る』評
ホックニーが示す、新しい老年のモデル
それにしても、デイヴィッド・ホックニーにせよゲルハルト・リヒターにせよ、今のウルトラ老人たちの仕事の充実ぶりには驚かざるを得ない。老年期のイメージを解体する彼らの旺盛な仕事は「思想と年齢」(アラン)というテーマを改めて浮上させるだろう。
私の印象では、今では青年期から老年期の手前までが、ひと続きのシリーズになっているように思える。現に、中年になっても精神的に幼く、青年のような鬱屈や不平不満をためこんでいるケースも多いし、逆に若いうちから青年期のような反抗精神をもたず、ずっと順応的に生きているケースもある。外部がどれだけ騒々しい《天下大乱》の様相を呈していようとも、内部は(いわばシリーズものの長編ドラマのように)あいまいに連続する――それが現代人の心的生活の典型ではないか。そう考えると、人生の綴り方に質的なジャンプの機会が訪れるとしたら、それは老年期だけかもしれない。
そもそも、年齢についてどう思考すればよいだろうか。例えば、ヘーゲルは主体と客体(世界)の「関係」からアプローチした。ヘーゲルによれば、青年期においては、不完全な主体と不完全な客体が対立している。大人になると、主体はそのような葛藤から一歩進んで、できあがった客体の必然性を承認するようになる。そして老年期になると、主体は完成した客体と一体化し、自己を完成に導くのである(※)。同じように、ゲーテは「老年とは現象からの段階的な退去である」と述べたが、このゲーテ的老年も外界の刺激に揺り動かされることはない(ゲオルク・ジンメル『レンブラント』参照)。ヘーゲルにとってもゲーテにとっても、老年期の主体はもはや客体(世界)にくすぐられることのない静謐のなかに生きている。
ノルマンディーの景観を「天国」と感じるホックニーは、ついにヘーゲル=ゲーテ的な「老年」の境地にたどり着いたのだろうか。否、それにしては、その画像はあまりにも生気に溢れている。ホックニーはあくまでイメージの発明者・実験者であり、ものを見る行為をたえず生まれ変わらせるためにテストを繰り返し、「月並み」な事物まで活気づかせている。「画像はどれも、目で見たものの説明だ」(『絵画の歴史』)。ホックニーによる「説明」は、デジタル絵画においていっそう鮮明で手の込んだものになっている。
ヘーゲル的な老年期とは、完成した主体が完成した客体と一致することを指していた。しかし、ホックニーという老アーティストにおいては、主体(画家)が客体(自然)と最も親密になったとき、その両者はかえって「進行中の未完成な作品」として描き直される――ちょうどホックニーの《アトリエ》のように。そこにはヘーゲル的な青年のような不全感はないが、かといってゲーテ的な老年のような「現象からの退却」もない。そこではむしろ現象が爆発している。とすれば、絵画のイメージの内にいながら外にもいるアトリエのホックニーは、新しい老年のモデルを示しているのではないか。
もとより、われわれの人生は青年から老年へとリニアに進行するだけではない。われわれには、不確定で暑苦しくとげとげしい世界のなかでも、ふっと月並みなものと親和する瞬間があるに違いない。それはいわば、いつ終わるとも知れない青年期のなかに、明るい老成が呼び込まれる瞬間でもある。してみれば、事実として老人であるかは、実はどうでもよい。穏やかで明朗な表情をたたえたホックニーの絵画が与えるのは、別の年齢、つまり別の心的生活へと乗り移るチャンスなのである。
(※)年齢や世代にまつわる哲学や社会思想は、まだ十分に練り上げられていない。例えば、オイディプスの「父殺し」が近代のモデルとして語られた時期もあるが(親に追いつけ追い越せ!)、現実には親子ほど年が離れていれば対立も起こりにくい。家庭内でのトラブルは別として、オイディプス・コンプレックスのモデルを社会的な人間関係にまで拡大するのは無理があるだろう。強いて言えば、むしろカインとアベルのような兄弟喧嘩(カイン・コンプレックス)のモデルのほうが、社会の葛藤や対立のパターンとしては優勢なのではないか。たいていの争いは、似たものどうしのあいだで起こるからである。
いずれにせよ、年齢や世代が喚起するのは、人間どうしの「関係」、さらには人間と世界との「関係」というテーマである。年齢(自然過程)をレンズとして関係概念を掘り下げる試みとしては、柄谷行人の古い論考「自然過程論」(『柄谷行人初期論文集』所収)が示唆に富む。さらに、生の不確実性やアイデンティティの多数性を強調するエドガール・モランの『百歳の哲学者が語る人生のこと』が、パンデミック後のフランスでベストセラーになったことも、一つの象徴的なエピソードとして付記しておきたい。