書物という名のウイルス 第9回

共和主義者、儒教に出会う――マイケル・サンデル他『サンデル教授、中国哲学に出会う』評

 では、本書において中国側の論客たちは何を主張しているのか。道家思想をテーマとする少数の論考は省いて、ここでは儒教から抽出された論点を三つ挙げておこう。それらはいずれもリベラリズムへの批判を含んでいる。

〈1〉調和と美徳の重視。儒者はアリストテレスと同じく、公民的な美徳を育てる政治を推奨する。つまり、善い生・善い人格を養うことが政治の目的(テロス)なのである。ただ、アリストテレス=サンデルが立法者を重視するのに対して、儒者は(より属人的に)政治的リーダーと人民が同じ美徳を共有すべきだと主張する。さらに、善き生のためには「社会的調和」が必須だと見なすところも、儒者はサンデルよりも一歩進んでいる。(李晨陽、黄勇論文)

〈2〉共和主義との関係。リベラリズムが政府の価値中立性を前提とするのに対して、共和主義はむしろ政治が高潔な魂の養成に関わるべきだと見なす。この点で、儒教は共和主義と似ているが、儒教のほうが道徳的要請においてより「濃い」。ゆえに、儒教においては、個人の権利よりも共通善の達成のほうが優先される。(朱慧玲、陳来論文)

〈3〉役割倫理。リベラリズムは「自由で自律的な個人」を出発点とするが、それはあまりにも抽象的であり、生活世界に根をもたない。それに対して、孔子は特定の家族やコミュニティの関係において、人間を捉えた。儒教的人間観においては、美しい人間性はカントのように自律性・主体性を絶対視するところにではなく、さまざまな「役割」(親、配偶者、隣人、同僚……)を協調的に演じるところに生じる。主体が役割の束である以上、その自律性は幻想にすぎない。(ロジャー・エイムズ、ヘンリー・ローズモント論文)。

 長い歴史的伝統をもつ儒教は、すでにさまざまなヴァリアント(変異株)をその体内に含んでいる。ありていに言えば、そこから自由主義の萌芽を読み取ることもできるし、がちがちの権威主義を抽出することもできるだろう(休眠状態のヴァリアントが突然目覚めることもある)。そもそも、「述べて作らず」をモットーとした孔子からして、「先王の道」を体系的に変異させ、感染しやすくした遺伝子工学者のような思想家ではないか……。それはそれとして、本書の論客たちの示す「21世紀の儒教」が「20世紀の儒教」から大きく様変わりしたことは、ここで確認しておかねばならない。

 もともと、20世紀において儒教は、中国近代化の最大の障害として厳しい批判を浴びてきた。それに反発した一部の中国人思想家たちは、儒教さらには仏教のリソースを使って、西洋哲学に匹敵するような巨大な「体系」を構築しようと試みた。このような体系的哲学への志向は、儒教の長い歴史においても、朱子学以来の稀な変異の仕方だと言えるだろう。

 この「新儒家」の代表格である1909年生まれの牟宗三は、カント哲学(特にその道徳的主体のモデル)を高く評価しつつ、そこに中国哲学の側から修正を加えた。カントはフェノメノン(感性的対象)とヌーメノン(超感性的対象)を区別し、理性によっては後者は不可知だとした。それに対して、牟宗三によれば、儒教や仏教はフェノメノンの分析には適さないものの、ヌーメノンに接近するための知をふんだんに蓄えてきた。牟はこの「ヌーメノンにアクセスできる主体」の構築こそが、中国哲学の独自性だと見なすのである(拙著『ハロー、ユーラシア』(講談社/2021年)参照)。

 その一方、本書で描かれる「21世紀の儒教」は牟宗三型の変異株からは遠く離れている。それは個人の自律性や主体性を敵視し、むしろ共同体を支える美徳の礼賛に向かっている。つまり、20世紀に批判された古いタイプの儒教が、かえってサンデルさらにはアリストテレスの政治哲学と共鳴するものとして再評価されたのだ。

 主体の再建をテーマとする20世紀の《儒教とカント》から、美徳の再建をテーマとする21世紀の《儒教とサンデル&アリストテレス》へ(※)。この枠組みの変化はイデオロギー的であるとともに、時代の気分を表現してもいる。序文でジャーナリストのエヴァン・オスノスが述べるように、中国は確かに経済成長し、世界に冠たる一流国となったが、それで本当によかったのかという疑念も多くのひとびとに抱かれていた。この心理的な空白があったところに、道徳的価値の再建を企てるサンデルが颯爽と現れたのである。コミュニティの道徳的基盤を求め始めた中国人にとって、サンデルは格好のスターとなった。儒教研究の変化も、このような社会的風潮と無縁ではあり得ない。

(※)この点は黄勇の論文でも言及されている。「学者のなかには、儒教はカントの道徳哲学の枠組みの中でよりよく解釈できると考える者もいる。とりわけ、現代の儒者としてはおそらく最も重要な牟宗三に強く影響された台湾や香港の儒教研究者がそうだ。しかし、儒教はアリストテレス主義になじみやすいと考える者も、私を含めて次第に増えてきている」(84~5頁)。儒教内部でのリヴィジョニズム(修正主義)は現在進行中の問題なのである。

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