つやちゃんが語る、フィメール・ラッパーたちの功績とその可視化 「チャラいものこそが素晴らしい」

いかに日本のフィメール・ラップ史を描くか

――ハイパーポップで注目しているアーティストは、本書で紹介されている楽曲のプレイリストやディスクガイドで言うと、どのあたりでしょうか?

つやちゃん:プレイリストやこの書籍は、アルバムやEPを出しているアーティストがメインなんです。たまに例外も入っていますが、そのルールを基本的に設けた。だから、アルバムやEPを出していないハイパーポップのサンクラ(SoundCloud)系のアーティストは、あまり選べなかったんです。そこは基準をもうすこし緩くしても良かったかもしれないなと。この本を出して数ヶ月が経って、そこはちょっと後悔しているんですよ。このシーンの変化はスピーディですから、執筆時点での動向を紹介しておけば良かったです。

――例えば?

つやちゃん:Zoomgalsとはまた異なる女性同士の連帯という意味で、3人組のDR.ANONは入れておきたかったですね。DR.ANONのメンバーのe5は「PRKS9」のインタビューで、もともとはボカロが好きでヒップホップは見た目も服装も苦手でカッコイイと思えなかったと語っていました。彼女はボカロを入り口に邦楽のロックを聴き始め、バンドも組むんです。そしてある時、友人に韓国や海外のヒップホップを教えてもらって聴くようになると、USのヒップホップにボカロをサンプリングした曲があることに気づく。それでヒップホップの面白さに気づいてスマホのGaragebandでビートを作り、ラップもするようになったと。そうした面白い音楽の変遷を持つ彼女がDR.ANONではハイパーポップをやっている。それが、ハイパーポップのシーンの自由さだと思います。

Dr.Anon – Blast

――その話を聞いていて考えるのは、今年2月に出版された『シスタ・ラップ・バイブル ヒップホップを作った100人の女性』(クローヴァー・ホープ著/押野素子訳/河出書房新社)と今回つやちゃんさんが書いた本のヒップホップ観の違いについてです。前者は、アメリカのヒップホップ史の再編の試みで、『わたしはラップをやることに決めた』にも同様の方向性はあるのですが、それよりもまず、日本のヒップホップやラップの枠組みそのものの解体と読めました。

つやちゃん:私も最近『シスタ・ラップ・バイブル』を読んでいてそのことを考えました。じつはこの本を書くときに、『シスタ・ラップ・バイブル』的アプローチも考えはしたんです。COMA-CHIやRUMIを中心に置き、オーセンティックなヒップホップや、そうしたラッパーたちだけで書く選択肢もあった。だけど、その書き方をしなかった。それには理由がふたつあります。ひとつは、市場の大きさがアメリカと日本では決定的に違うということ。つまり、日本でオーセンティックなヒップホップのフィメール・ラッパーだけで書こうとすると、私の今回の本の分量の半分ぐらいのページになったはずです。

――なるほど。

つやちゃん:ふたつめの理由は、たくさんの女性アーティストが、ゼロ年代前半にJポップとヒップホップ/ラップを上手くミックスしたポップなラップ・ミュージックを作っていたということですね。それを掬っていくことでどんどんフィメールラップ史の射程が広がっていきましたし、女性の場合はポップミュージックとヒップホップの狭間で活動していた人たちがたくさんいて、実はそういうところで試みられたラップミュージックとしての実験というのは歴史的に見ても非常に重要だと思ったんです。

時代性と接続することで価値を伝える

――例えば、安室奈美恵が小室哲哉のプロデュースから離れ、ヒップホップのプロダクションを大々的に取り入れた『STYLE』(2003)を「日本流Bガール」と評したり、SOULHEADの『Oh My Sister』(2004)を和製ディーバ・ブームの延長で捉えたりしていますよね。また、ゼロ年代前半ではないですが、青山テルマ feat. 加藤ミリヤ「poppin'」(2018)などについても言及しています。先ほどオーセンティックという言葉が出ましたが、むしろ、こうした作品を正当に評価しているのが、日本の大衆音楽批評という観点で考えれば、“正統的=オーセンティック”ではないかと思いました。 今回、つやちゃんさんから私にいくつか質問をいただきました。そのなかに、「過小評価されているラッパー」または「隠れた名作」は何か?という問いがありました。むしろ自分はライターを始めた頃は特に、オーセンティックというより、国内の主流の音楽産業からはほとんど無視されているアンダーグラウンド/オルタナティヴなアーティストについて書きたい、という欲求がありました。例えば、先ほど名前の出たRUMIはまさにそういうラッパーでした。

つやちゃん:多くのラッパーが参考にするのはUSのヒップホップですよね。でもRUMIはUKのラップやレゲエの影響もあり、そこに幅の広さを感じます。

――はい、そう思います。また彼女はノイズやハードコアを熱心に聴いていた時期もあったそうです。仮に80年代の東京で表現活動をしていたらパンク・バンドをやっていたのではないか、そんなことを想像させる特異なラッパー/アーティストです。「隠れた名作」というか過小評価されていると考えるのは、そのRUMIとSIMI LABのMARIAがラップする『LA NINA』(2012)という女性アーティストが集結したコンピレーションの表題曲です。本書には「ラップコミュニティ外からの実験史」というコラムがありますが、それに倣って表題曲について言えば、「ラップコミュニティ外との接点が生んだ実験」といえる10年代のラップの重要曲だと思います。

「LA NINA」KLEPTOMANIAC feat.RUMI,MARIA

――そもそも、ビートを作っているKLEPTOMANIACに2人がフィーチャリングという形で参加しています。KLEPTOMANIACはコラージュやペインディング、DJや電子音楽の創作などもおこなうアーティストで、WAG.(ex:WAGINASS)というアート集団の発起人でもあり、このコレクティヴは同名の作品集(2008)も出版しています。そんな多才な彼女がキーパーソンとなった『LA NINA』というコンピは、レゲエ、ヒップホップ、テクノ、ハウスが混在する2010年前後の国内のクラブ・ミュージック/カルチャーの記録として非常に貴重ですし、いま聴いても刺激的です。話をつやちゃんさんの本に戻しますと、実際にRUMIの作品も複数紹介されていますね。そこで面白いのは、『HELL ME TIGHT』(2004)というファースト・アルバムに桐野夏生『OUT』(小説は1997年/映画は2002年)との同時代性を見出したり、またPUFFY「アジアの純真」(1996)を“ラップ的ルーズさ”から評価し、彼女たちの言語感覚を当時の“J文学”と比較する視点などです。

つやちゃん:世の中に広く知られていない、過小評価された作品を伝えるためには、「この曲がいいよ」と言うだけではどうしても足りない。その時代の音楽のトレンド、カルチャー、社会背景があって、だからこそこの曲は生まれたわけだし、そういった時代感をちゃんと反映しているがゆえにこの曲は素晴らしい、と言いたかったんです。実際、音楽は音楽だけのことを考えた結果生まれているわけではないですよね。無意識的にせよ、同時代の他ジャンルの作品だったり、そういった作品が吸った空気と同じものを吸いあげた結果として生まれている。空気感をあの手この手でどうやって伝えるか、というのは意識しましたし、それはリアルタイムで体験していないとなかなか難しいですよね。

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