アイヌ文化を描く漫画は『ゴールデンカムイ』だけじゃない 石坂啓の隠れた名作『ハルコロ』の現代性

 石坂啓の隠れた名作――『ハルコロ』が先ごろ、岩波現代文庫から刊行された(全2巻)。同作は、本多勝一の著書(『アイヌ民族』)を原作とする、ひとりのアイヌ女性の半生を描いた長編漫画である(監修・萱野茂)。

石坂啓の強い意思

『アイヌ民族』(本多勝一/朝日新聞)

 主人公の名は、ハルコロ。この、「いつも食べるものがある」という意味の名を持つ愛らしいヒロインの目から見た、つつましくも豊かなアイヌの暮らしを、作者は丁寧なタッチで綴っていく。

 口元の入れ墨(“一人前の美しい女性”の証)を幼い頃に入れられた時の痛み、道具を大事にしなさいという神の教え、女性たちの間で継承されていく複雑な刺繍の図案、“大地の恵み”に感謝する伝説の数々、同世代の女性よりも遅れているチュッペ(生理)への不安、そして、幼なじみの青年への淡い想いと、なかなかうまくいかない四角関係の恋愛模様……。なかでも石坂は、この主人公を中心にした四角関係の描写にかなりのページ数を費やしている。さらにいうならば、執筆当時(1989年連載開始)、全盛期だったトレンディドラマ風の演出さえ取り入れて、“現代的な恋のかけひき”を描こうとしている。

 私はそこに、この物語を描いた作者の意図というか、強い意志のようなものを感じる。そう――石坂啓は、(先に挙げた女性の口元の入れ墨のような)アイヌの珍しい風習や文化もきちんと描いてはいるのだが、おそらく彼女がこの漫画でもっとも強調したかったのは、現代(いま)を生きる我々「内地人」と、アイヌの人々はなんら変わらない、ということなのではないだろうか。

 そしてもうひとつ。この物語の要所要所で繰り返し描かれているのは、「伝える」ことの大事さだ。文字による文学を持たなかった(とされる)アイヌの人々は、“語り”で民族の神話や伝説を伝えてきた。なかには、4晩かかっても終わらない物語をそらで語れた名人さえいたという。また、祖母から母へ、母から娘へと継承された、血のつながった女性しか知らない独自の文化もあったようだ。

 文庫版1巻の「解説」で、中川裕(アイヌ語研究)は、石坂啓の師匠である手塚治虫の次のような文章を引いている。(アイヌが出てくる手塚の『シュマリ』という作品の主人公が、当初の構想とは異なる設定になってしまったのは)「征服者である内地人であるぼくが、被害者であるアイヌの心情などわかるはずがないと悟ったからです」

 この師匠の無念(?)を、石坂が『ハルコロ』を描く際にどこまで意識していたかはわからないが、ひとつだけいえるのは、たとえ「内地人」側が書いた記録であろうとも、「何もなかった」ことになるよりはずっとマシ、ということだ。誰かが何かを伝えていかなければ、かつてこの世に確かに実在したものであっても、いつの日にかすべて忘れ去られてしまう。

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