山崎まどかの『一度きりの大泉の話』評:萩尾望都が竹宮惠子に向けていた眼差しとその痛み

 1970年から1972年まで竹宮惠子と萩尾望都が同居し、そこに同世代の少女マンガ家「花の24年組」を中心とするメンバーが出入りして「大泉サロン」と呼ばれた借家。それは少年マンガにおける「トキワ荘」と並ぶ、少女マンガ文化におけるひとつの伝説だった。

萩尾望都の側から見た残酷な事実

『少年の名はジルベール』(小学館)

 竹宮惠子が自伝『少年の名はジルベール』(小学館/2016)で「大泉サロン」時代の話を書くと、この伝説には新たなベクトルが加わり、より神話性が強まっていった。接近し過ぎた若い創作者同士の思わぬ齟齬。竹宮惠子はそれを天才・萩尾望都への自分の一方的な嫉妬として描いている。

 萩尾望都の語り下ろしである『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)は『少年の名はジルベール』そのものというよりも、竹宮の本に対する反響で自分が被ったことへの返答として書かれている。これは単体で読む彼女の自伝というよりも、傷ついた人の頑なな言葉で綴られた竹宮の物語に対する註釈なのだ。

 読み物としては『少年の名はジルベール』の方が、話もまとまっていてはるかに面白い。竹宮惠子にとって創作者としての二十代の模索と苦悩、理想に燃えていた若き日は語るべき物語だったが、萩尾望都にとっては封印したい過去であり、プライバシーだった。その差である。しかし知りたいことの核心があるような気がして、『一度きりの大泉の話』は読み出したら、止めることができない。そしてページをめくるたびに、誰かの傷口に指を挿し入れたような、いたたまれなさと罪悪感を感じるのだ。

 竹宮惠子の物語の側ではただ、彼女が「(萩尾望都と)距離を置きたい」と相手に言っただけになっていることの、萩尾望都の側から見た事実は残酷だ。それが彼女の創作物の成り立ちへの疑問と非難となっているのなら尚更である。萩尾望都は私小説的な作家ではなく、ストーリーとして出来上がった創作物だけが彼女を物語る全てというタイプだから、自分の全存在を否定されたような気がして、どんなに傷ついただろう。また、この話を語るのがどんなに嫌だったことだろう。

 しかし、竹宮惠子と萩尾望都の間にあったことは、まだ人間としても未熟で創作者として自分を作る過程にある若いアーティスト同士には普通に起こりうる悲劇だったとも言える。当時の作品が既に成熟しているので忘れがちだが、何せ、二人とも二十歳そこそこだったのだから。二人の担当者である山本順也が危惧したように、二人の作家が同居するのがそもそもの間違いだった。それでなくても同ジャンルの新人作家として、同時代の空気を吸い、同じような文化圏にいれば、影響を受け合うのは避けられない。しかも二人には、増山法恵というカルチャーの水先案内人が近くにいた。彼女が二人にとって導師のような存在になりうる年上の人間ではなく、同年代の友人だったことも事態をややこしくしている。

 竹宮が増山を懐刀のように思っているのに対し、萩尾は「アーティストを自分の媒介」として見ていると彼女を警戒しているところがある。ただそれも、決裂の後に当時を振り返って上書きされた印象かもしれない。(絶え間なく描かれる自己評価の低さを含め)萩尾望都の言葉を額面通りに受け取るのは難しい。当時を思い出すのが苦痛なあまり、喜びさえも全てなかったことにしようという姿勢が見て取れる。

 「美人」「頭の良い方」「人間的にも立派」と持ち上げながら軽蔑をにじませ、竹宮惠子を他人として冷ややかに突き放す言葉には彼女の傷の深さも感じるが、同時に、竹宮惠子が彼女を気にするほどには、彼女は相手を気にしていなかったという天才らしい残酷さが垣間見える。山岸凉子の言う通り、彼女には他人の嫉妬というものが本質的に理解できないのだろう。

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