カズオ・イシグロとロボット研究者・石黒浩、その共通点と差異は? 『クララとお日さま』から考察

 カズオ・イシグロの最新小説『クララとお日さま』は少女のかたちをしたアンドロイド・クララが、ジョジーという少女の住む家で稼働する日々を、クララの視点から描いたものだ。

 ヒト型のアンドロイドといえばマツコデラックスや桂米朝、勝新太郎、夏目漱石、立川談志などのアンドロイドを作った大阪大学のロボット研究者・石黒浩が想起されるが、石黒浩は『アンドロイドは人間になれるか』のなかでカズオ・イシグロ作品が好きだと語っている。

 イシグロが石黒のことを意識して『クララとお日さま』を書いたかは不明だが、ここでは石黒的な視点から『クララとお日さま』を読み解いてみたい。

イシグロと石黒の共通点――アンドロイドが人間の死生観を問う/変える

 イシグロの代表作『わたしを離さないで』と『クララとお日さま』には相通ずる部分がある。『わたしを離さないで』は臓器提供を目的につくられたクローン人間の子供の視点から描かれたものだ。『クララとお日さま』のクララは、実はジョジーの両親が、病弱なジョジーがもし亡くなったときには、そのあとで代わりになるようにジョジーの振る舞いを「学習」させている。クローンもロボットも自己意識を持った存在だが、しかし、特定の目的のために作られた人間の模造品・代替品にすぎない。

 イシグロは「文學界」06年5月号に掲載されたインタビューでこう言っている。

「我々の体がいずれ動かなくなるという事実から逃げることはできません。概して我々はそれぞれ違った方法で死を逃れようとします。死後の世界を信じたり、もっとささいな方法としては、作品を残したり、我々自身の記憶や、人生で達成したものを残したり、我々を愛してくれた人や友人の思い出を残すようなことをするのです。何とかして、ある程度は死を克服することができます」

 クローンやアンドロイドはそういう「死から逃れる手段」だ。

 石黒浩も特定の人物そっくりのアンドロイドを作ることは、その存在が社会的に死ななくなることにつながる、ということを『人とは何か』などで書いている。

 米朝や談志のアンドロイドは、ビデオを元に彼らの動きを学習しており、高座を再現する。実空間に存在するアンドロイドは、ただの動画や音声データ、あるいは銅像や遺体などよりもはるかに存在感をもって私達の前に現れる。

 ディープフェイク技術を使えば、新規に何か言わせることさえできる(石黒の作品ではないが、AI美空ひばりではこれが行われたことが物議を醸した)。

 自分や肉親の死後も、完璧に同じではないにせよその似姿を持った存在があたかも「生ける墓」のようにあり続け、言葉や動きを再現し続けることができたとしたら、私達の死生観は変わるだろう。

 そもそも人間が機械、道具を作るのは、ひとの能力を補助・代用させるためであり、アンドロイドを人間の代わりにするという発想は、技術の本質からいって当然のものだ。

 また、『クララとお日さま』では、最後にクララは廃棄される。そこに読者は物悲しさを抱く。このように、ただのモノにすぎない機械に感情移入し、弔う必要があると考える人びとの姿もまた、石黒浩の著作『アンドロイドは人間になれるか』などに記述されている。

 老朽化したワカマルというヒト型ロボットを破棄することになり、檻に入れて鍵をかけて大学構内に置いていたところ、ある学生がその姿を写真に撮ってSNSにアップ。それが瞬く間に大量に拡散され「かわいそうだ」という苦情が殺到して廃棄を取りやめせざるをえなくなったという「ワカマル廃棄事件」だ。

 ほかにもソニーのアイボも「葬儀」が執り行われたことがあった。

 一方では特定の目的のために作られた「モノ」として処理しながら、もう一方では愛着を抱く生きものとして手厚く葬るべきだという感情が沸くのが人間の興味深いところだ。