元ニートの登山家・栗城史多はなぜ無謀な挑戦を止められなかったのか? 「冒険の共有」という言葉の代償

 また「無酸素」「単独」という看板がどれほどの難度なのか、支援や応援していた人たちが理解していたのかにも疑問が残る。登山という行為自体があまりに日常とかけ離れた行為であるため、その知識が一般には知られていない。エベレストでの彼の登山が登山界の常識から見れば「単独」「無酸素」に当てはまらないのは明白であるにもかかわらず、栗城史多自身や関係メディアは登山を知らないファンに向けていわゆるキャッチーな看板として掲げ続けていたにすぎない。某テレビディレクターが彼を「元ニートの登山家」として売り出したように(実際はニートではない)。

 「冒険の共有」を謳って登山の様子や登頂シーンの中継を目玉としていた彼は、実に8回もエベレストに挑戦し、その全てが失敗に終わった。「無酸素」「単独」や「否定という壁への挑戦」という言葉を掲げてしまったことによって自分を縛ったために、酸素を使用しサポート付きで初登頂することさえ事実上「不可能」になってしまった。そして未登頂のまま、より難度の高い(本人にとってではなく、登山界としての)ルートを挑戦するしかなくなった。つまり現実的に登頂が不可能であるならば、もはや挑戦する姿だけを支援者や視聴者に見せることが目的となっていたのではないか。

 彼が掲げた「冒険の共有」によって、彼が目を向けるべき対象が山から「共有者」へとすり変わり、山に登るという意味自体が彼の中で変わってしまったのではないだろうか。結果、彼はエベレスト挑戦中に命を落としてしまった。

 現在はクラウドファンディングなど支援者を募る仕組みが一般的になり、個人でも支援することが気軽になった。しかし支援するということは金額に関わらず挑戦する人間に責任を負わせることでもあると感じる。

 日本を代表する冒険家、植村直己でさえスポンサーや支援者がいたことによって、挑戦する冒険のハードルは上がっていった(冬期のマッキンリーにて遭難)。また探検家であり作家の角幡唯介はそうした支援者のプレッシャーを避けるため、カナダ北極圏1600Kmを徒歩踏破した著書『極夜行』の中で費用は自費であると書いている。

 本書では彼のこれまでの挑戦とその結果、そして数々の疑惑について公開されていない映像などからその真実を明るみにしているが、そこまでして山に登るパフォーマンスを繰り返すことで彼は何者になりたかったのだろうか。栗城史多という人物を通して、自己実現や承認欲求といった心の隙間に入り込んでくる「夢」や「挑戦」といった心地よい言葉の危うさについても考えさせる一冊だ。

■すずきたけし
ライター。ウェブマガジン『あさひてらす』で小説《16の書店主たちのはなし》。『偉人たちの温泉通信簿』挿画、『旅する本の雑誌』(本の雑誌社)『夢の本屋ガイド』(朝日出版)に寄稿。 元書店員。

■書籍情報
『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』
著者:河野啓
出版社:集英社
価格:本体1,600円+税
出版社サイト

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