『ようこそ実力至上主義の教室へ』が圧倒的に支持されるワケ ハイパー・メリトクラシー化した学校空間を描く巧みさ
利己的・個人主義的思考を矯正する仕組みと、介入によるゲーム自体の恣意性の強調
成績上位クラスは良い思いができ、成績下位クラスは貧乏ライフを強いられるものの逆転をかけて戦うという設定は、2007年スタートの井上堅二『バカとテストと召喚獣』では笑いと熱い展開を生み出す装置として用いられていたが、2015年スタートの『よう実』では「これが今の世の中だ」と言わんばかりに過酷で、高校生たちのメンタルをえぐるものとしてシリアスに描かれていく。
ただ『よう実』が興味深いのは、個人が利己主義的に振る舞いすぎるとクラスの敗北につながり、連帯責任で自分もポイントを失い、Aに上がれない(Aの人間なら立場が維持できない)という仕組みを用意していることだ。
綾小路同様Dクラスになった実力派の堀北鈴音は、入学当初はきわめて利己的に振る舞っていたが、試験を経るうちに「ほかのクラスに勝つためにはクラス全員が一丸にならねばならない」と気づき、利他的に行動するように態度を変化させていく。
ただしきれいごとだけで勝てるようにも、試験は設計されていない。
Cクラスを統率する龍円が繰り出す卑怯な手段や、綾小路の本心では冷徹ながら表向きは他人思いに振る舞い、相手の過去や内面に踏み込んで信頼を獲得していくサイコパスぶりは読者に強烈な印象を残す。
とはいえ、最終的にどう振る舞うことを是としている作品なのかは、未完結時点の今はまだ定かではない(そこが面白くもある)。
また、舞台となる学校は、大多数の生徒にとっては人生の一発逆転、あるいは安泰を懸けて戦うアリーナだが、綾小路にとってはかつての地獄のような環境に強制送還されないためのシェルターであるという二重性が用意されている。
運営側が試験に介入してくるのに対し、主人公の方がルールを守らせるために立ち回る。
つまり本作は盲目的に「ルールの決まったゲームの中で勝てばいい」という考えに基づいてはいない。受験エリート礼賛作品ではないのだ。
ネオリベ的な競争社会の是非を両面描き、協力して勝つことの美しさも、倫理を無視してゲームのルールの穴を突くことも描けば、みなが必死に取り組んでいるゲーム自体の恣意性を強調しもする。
堀北のような根は良い人間も、龍円のような勝つためには手段を選ばない人間も、また、「そもそも学校制度なんて恣意的なもので、縛られるのはバカらしい」と考えている人間にも、それぞれが「そうだよな」と思って読めるつくりになっている。
こうした多面性が、色々な読者層を取り込み、また、多感な読者に様々な視点で物事を捉えるきっかけを与えている。
非常にしたたかな作品である。
■飯田一史
取材・調査・執筆業。出版社にてカルチャー誌、小説の編集者を経て独立。コンテンツビジネスや出版産業、ネット文化、最近は児童書市場や読書推進施策に関心がある。著作に『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの? マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』『ウェブ小説の衝撃』など。出版業界紙「新文化」にて「子どもの本が売れる理由 知られざるFACT」(https://www.shinbunka.co.jp/rensai/kodomonohonlog.htm)、小説誌「小説すばる」にウェブ小説時評「書を捨てよ、ウェブへ出よう」連載中。グロービスMBA。