山崎ナオコーラが考える、性差のない未来 「父親も本当はおっぱいから乳を出したいんだろうな」

日本語の小説なら、性別をはっきりさせずに書くこともできる

――今日のお話もそうですが、今作でナオコーラさんは、男女という単語を出さずに性別を表現していますね。

山崎:私自身が、女性・男性って言葉を使うのが好きじゃないなということに、最近気がつきまして。最近、履歴書やアンケートに性別を書かないようにする動きが出てきたのは嬉しいことですが、いまだに書かなきゃいけない場面は多い。たとえば事件の犯人がつかまったときも「30代の女」とか「会社員の男」とか言われたりするじゃないですか。なにかの理由で必要な場合以外は、ただの「人」でいいんじゃない?って思うんですよね。性別がはっきりしていたほうが生きやすい人もいると思いますが、私は性別を問われない社会のほうが生きやすい。少数派かもしれないけれど、同じように感じている人は少なくないはず。だったら、性別を書かない小説も需要があるかもしれない、そういう本があったほうが生きやすいと思える人もいるんじゃないか、と思いました。あと、老い先も短いし、残りの人生は好きな言葉だけを使っていきたいなと。

――老い先は短くないと思いますが……(笑)。

山崎:(笑)。主語を省略して文章を書ける日本語の小説なら、性別をはっきりさせずに書くこともできるんじゃないかというのもありましたね。この路線は、今後も続けていきたいなと思っています。

――なるほど……。たしかに、私は女性であることがいやだとまでは思いませんが、「性別って邪魔くさい!」とうんざりすることはあるので、この本で描かれる性別が曖昧になっていく社会は居心地がよさそうで、うらやましかったです。

山崎:性的マイノリティの人に対して配慮しようという考え方は少しずつ広まっていますが、いわゆるLGBTQじゃない人に対しては遠慮なく性別の話をしてもいい、みたいな雰囲気はあるじゃないですか。でも、性的マイノリティではないけど性別の話はあんまり好きじゃない、という人は私のまわりにもいて。属性にかかわらず、性別の話はそんなにしなくていい世の中になった方がいいなと思っています。

――「笑顔と筋肉ロボット」の主人公・紬は、「小柄で非力なんだから、かわいい笑顔をこころがけて人に助けてもらいなさい」と言われて育ちます。でも、ロボット技術で怪力を手に入れたとたん、むやみに人におもねる必要はなくなって、自分の言いたいことをちゃんと言えるようになる。たしかにこれから先の未来は、技術が性別を溶かしていくことってあるだろうなあと思いました。

山崎:技術もコミュニケーションツールも少なかった時代は、小さい=力が弱い=助けてあげなきゃ、って瞬時に判断するしかなかったんだと思いますし、そういう意味では性別での区分けは理にかなっている部分もある。でもこれからは、そんなざっくりとした分け方で人を判断する必要がなくなってくるんじゃないのかな、と思います。ただ、私も性別でわけられるのは好きじゃないといいながら、こちら側の性であることで過酷な思いばかりしてきたかというとそうでもなく、重い荷物をもってもらえたり、面倒な矢面に立たなくて済んだり、ラクさせてもらってきた部分もたくさんある。いやだったときには文句を言うのに、よかったときのことはスルーしちゃうのはいいのかな?という疑問はあるので、そのつど立ち止まって考えていきたいですね。

――そこがナオコーラさんのフェアなところですよね。この小説でも、古い価値観に対して「性別でわけるのはこういう理由で合理的だったのか」「たしかにラクもさせてもらってきたけど、違和感はちゃんと表明したいから、自分もこういうところを改善していこう」という流れで描かれている。だからこそ紬は、ロボット技術を手に入れて、面倒なことも自分でなんとかできる道を選んだわけですし。

山崎:性別のことも含めて、私はわりと生きづらいなと感じることがたくさんあって、昔はそれを誰かのせいだと思っていたんですけれど、よくよく考えてみると絶対的な悪者はいないなと思い当たったんです。たとえば家事のできない夫を見て、教えてこなかった夫のお母さんはどうなんだろう?とは思いますけど、お母さんはいい人だし、息子に家事を教えなくてもいい時代に生きていたんだから当然のことなんですよね。性別に関する苦しみは、誰かがもたらしたものではなく、社会のシステムや空気感によって生み出されている。だから小説を書くときも、誰かを悪人にするのではなく、社会全体を見通した書き方ができたら、と思っています。

――力を手に入れた紬に対して、パートナーの健が、もう自分は必要とされなくなるんじゃないかという寂しさをこぼす場面がありました。その後、「『他の人にはできないことを補うことが仕事だ』っていう考えはもう古いのかもしれない。『誰にでもできることを、僕もやるんだ。それを仕事とするんだ』って考える時代になったんだ」というところはけっこう、泣きそうになりました。

山崎:若い頃って、いつか「あなたが必要だ」と言ってくれる誰かに出会えるんじゃないかと夢を抱いてしまう。私も20代のころは、誰にもできないことが“仕事”なんだと思ってたし、誰も書いたことのない大傑作を書かなきゃ意味がないと思っていた。でも大人になるにつれて、誰からもとくに必要だなんて言われないし、自分の代わりなんていくらでもいることにだんだん気がついていった。さらに歳を重ねて、みんなが言ってることを言ってもいいし、誰でもできる仕事をやってもいいんだっていうこともわかってきた。必要とされてなくても、生きていい。それが人生だし、社会なんだって私自身が気づけたから、誰かが「そうか、生きてていいんだ」って思えるきっかけになるような本を書いていきたいですね。私自身が若いときに、自殺しないで済む糸口が載ってる本がどこかにないだろうかと求めていたから、誰かが自殺しないで済む本を書きたいと思っているんです。

――何かを成し遂げられなくても生きていていいんだ、という想いは、以前刊行された『趣味で、腹いっぱい』にも通じるところがありますね。

山崎:そういうことばっかり書いてしまうんでしょうね(笑)。人って、他人に対しては寛容に「だめでも大丈夫だよ」って本気で思えるけど、自分のことになるとどうしても「なんでこんなにだめなんだろう」とか「成果を出せない自分には意味がない」とか落ち込んでしまう。でも、生きている意味なんて見つけなくたっていいし、唯一無二の人間である必要なんてどこにもないんだって空気をつくるのが、小説や映画の役割なんじゃないかと思います。

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