『一人称単数』から垣間見える村上春樹の“顔” 実験の場としての短篇集

『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)

 村上春樹は読書ガイド『若い読者のための短編小説案内』の文庫化にあたっての序文で、短篇小説について〈ひとつの実験の場として、あるいは可能性を試すための場として、使うことがあります〉と書いている。その言葉は、最新短篇集『一人称単数』の収録作にも当てはまる。

 本書に収められている8篇の内のいくつかは、ひとつの実験を読み取ることができる。それが、私小説の要素を取り入れるという試み。実生活をありのままに描くというわけではないが、これまでになく作者の顔が見えるフィクションとなっているのだ。

 冒頭の短篇「石のまくらに」では、一人の女性についての記憶が語られる。大学2年生だった〈僕〉はある日、アルバイトの同僚で20代半ばくらいの女性と一夜を共にした。それ以上の関係には発展せずに終わったが、長い年月を経た今も〈僕〉は彼女のことをふと思い出して、どうしているだろうかと考える。そして短歌を作っているという彼女に贈られた歌集を読み返すと、当時の記憶が蘇ってくるのだった。

『猫を棄てる』

 村上春樹はノンフィクション『猫を棄てる』の中で、亡き父の残した俳句を手掛かりに、太平洋戦争時の彼の心情を思い浮かべようとした。本作はその経験を、小説に置き換えて描いているように見える。彼女の残した歌集を読み返すことに、〈いったいどれほどの意味や価値があるものか、僕にもそれはわからない〉。だとしても、再会する術のない今となっては、このよう方法でしか相手のことを思いやることはできない。そんな残された者の寄る辺なさが、「石のまくらに」と『猫を棄てる』には通底している。

 村上流私小説は、趣味を活かした軽みを持つ作品もある。「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、世界中でレコード屋めぐりをするとインタビューでも語っている、村上のレコードマニアぶりが存分に発揮された作品だ。

 仕事でニューヨークに滞在中の〈僕〉は、時間を潰そうと中古レコード屋に入る。すると約15年前に架空のレビューを書いた、実際には存在しないはずのレコードを発見する。アルバム名も全8曲の曲名も演奏者の名前も一致している。ちゃんと両面4曲ずつ、トラックもカットされている。こんな偶然があるだろうか。なのに、35ドルというまあまあ高い値段を見て、買おうかどうか迷う。どうせ誰かがでっち上げた紛い物だろうと信じ込んで、買わずにレコード屋を出る。ところが、夜になって買っておけばよかったと後悔して、翌日また店を訪れる。レコードを収集する者なら覚えのある、おそらくは村上春樹も経験しているだろう、掘り出し物を前にした〈僕〉の逡巡ぶり。これこそが、この作品の私小説的要素なのである。

 本書はこうした試みだけでなく、これまでの短篇集でも見られた、奇妙な味わいが魅力の作品も収録されている。「品川猿の告白」では、温泉旅館で働く猿が不思議な癖を告白する。

 群馬県の古びた旅館に泊まる〈僕〉は、風呂場で背中を流してくれた従業員の猿を部屋に招き、酒を酌み交わす。もともと大学の先生に飼われていたという猿は、人間界に適応して言葉を話せるようになっただけでなく、人に対してしか恋愛感情を抱けなくなってしまった。だからといって好きな女性と結ばれることは難しいと知る猿は、相手の名前を盗んで満足していたと〈僕〉に話す。女性に何が起きるのかは、〈名前の厚みが少し薄くなる〉〈重量が軽くなる〉という具合に随分と曖昧だ。ただ、念力を使う他に相手の運転免許証や保険証などのIDも必要と、名前を盗むための条件の案外厳格なのが何だか可笑しい。

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