『波よ聞いてくれ』ミナレに学ぶ“言葉のスペクタクル” 声を電波に乗せることの意味とは?
鼓田ミナレは、公共の場で発言する権利を特別に与えられた。彼女が匿名でないということは、つまり“責任”が現前化しているということでもある。もし彼女が匿名ならば、そこで放たれる言葉は変わってくるかもしれない。“公共の場とは何か?”、“この言葉を発する私とは何者か?”ーーそんなことを考えるきっかけを、ミナレはその姿勢で示しているように思うのだ。あっけらかんとした彼女の言動に、思いがけず惑わされてはいけない。“誰に向けて言葉を発しているのか?”ということに自覚的な彼女の態度を、自戒を込めて見習いたいものである。
アニメでは、ミナレのラジオ業界への参入と、彼女を取り巻く者たちの関係がユーモラスに描かれるのに終止しているが、これ以降マンガでは、カルト教団が登場したりとスペクタキュラー感が増してくる。しかしその反面、本来このマンガが持っている言葉のやり取りによる面白さ以上に、エピソードのインパクトの大きさの方が上回ってしまっているように思う。だが、最新刊である7巻では、リスナーの「義兄の引きこもりをなんとかして欲しい」といったお悩みに、ミナレが“身体を張って”挑む姿が描かれている。また彼女が、“身の回り”を論じるタームだ。小さなものに言葉を与えることで、それが伝搬し、やがて大きなものへと姿を変えることがある。鼓田ミナレとは“祭り上げられた代弁者”だが、その彼女が公共の場で何を申すのか。各コマから溢れ出すように書き込まれた愉快な比喩表現や、エキサイティングな彼女の言葉を前にすると、この心が凪ぐことはないのである。
■折田侑駿
1990年生まれ。文筆家。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、服飾、酒場など。最も好きな監督は増村保造。Twitter