カツセマサヒコが語る、初の長編小説への想い 「この小説では誰も成長していない。でも、それでもいいんじゃないかと思えた」

希望と絶望のいりまじった“明け方”を迎える若者たち

――何者かになりたくて、こんなはずじゃなかったともがく若者たち。それを痛々しいものとしてではなく、愛しい存在として描いた小説だな、と思ったのですが、『明け方の若者たち』というタイトルには彼らのこれから先に見出す希望、みたいなものをこめているんですか。

カツセ:どちらかというと、絶望なんです。会社終わりに飲み始めて、朝を迎えるまでの時間こそが幸せであり自由であり、無責任でいられる時間だと思うんですが、一日が始まればまたサラリーマンの自分を背負わなきゃいけないんですよ。朝日が昇ることは、自由と青春の終わりを意味してるんですよね。僕はこの小説で、その直前を描きたかった。

――「二十三、四歳あたりって、今おもえば、人生のマジックアワーだったとおもうのよね」という尚人の言葉がありました。社会人になり、いよいよ何かが「始まっちゃった」絶望と、でもまだ無責任でいられるちょっとの希望、というのがタイトルとも通じますね。

カツセ:そうですね。総務部時代、高卒の新人から定年するベテランまでいろんな人と接していたんですが、結婚したらローンに追われ、子供が産まれたら学資保険を積み立てなきゃいけなくて、やっと子供が独立したと思えば親の介護が始まって、どんどん“自分”が自分だけのものじゃなくなっていくのを感じていて。夫となり、父親となり、会社でも地位がつけばその肩書もプラスされて、幸せのぶん窮屈も増えていくんですよ。なかなか完全なハッピーの瞬間って訪れないな、と思ったときに、実は20代前半の社会人だけが、頑張れば手放しの自由を満喫できる時期だったんじゃないかなあ、と。「遊べるのは若いときだけだぞ」っておじさんたちが言いたがる説教を、もう少し丁寧に伝えられたらな、というのがこの小説かもしれません(笑)。


――みんな、その時は気づかないけれど。

カツセ:そうそう。人生なんて、失ってからその貴重さに気づくことの繰り返しで、僕もあの頃の自分がこんなに眩しく見えるなんて思ってもみなかった。だけど、ちょっとでも自覚することができたら、その後の人生ももう少し輝くかもしれないし、こんなはずじゃなかった、みたいな思いも薄れるかなあ、とか。特に今、コロナによって日常のほんの些細なことがどれだけ幸せでありがたいことだったか、っていうのがみんな身に沁みているじゃないですか。コロナそのものを題材にするには、僕はまだ現実を消化しきれていないし、決して“今の感覚”を狙いたかったわけではないけれど、少しでも読者の方が、心を寄せられるものになっていたらいいなあ、と思います。


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