独哲学者マルクス・ガブリエルの思想は過大評価か? 福嶋亮大が『新実存主義』を読む

 1980年生まれのドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは『世界はなぜ存在しないのか』(2013年/邦訳2018年)が世界的なベストセラーになったことで、一躍スターとなった。本書『新実存主義』(2018年/邦訳2020年)はそのガブリエルが「心の哲学」に立ち入って自説を述べながら、それについてジョスラン・マクリュール、チャールズ・テイラー、ジョスラン・ブノワ、アンドレーア・ケルンという4人の哲学者がそれぞれの立場から応答した本である(もっとも、彼らの議論がかみ合っているようにはあまり思えない――ガブリエルの2編の論文と冒頭のマクリュールの導入だけでも十分だろう)。大きくふたつのポイントを挙げておこう。

<1>ガブリエルはもともと、構築主義を批判する立場から「新しい実在論」を掲げたことで名をあげた。構築主義とはごく単純化して言えば、現実なるものは存在せず、たださまざまな解釈や表象を現実と取り違えさせる社会的な作用(知、メディア、歴史……)があるだけだ、という考え方であり、かれこれ半世紀近く大きな影響力をもった。例えば、犬の鳴き声という不変の現実はない、ただワンワンやバウワウというさまざまな解釈が現実だと勘違いされているだけなのだ――このような立場に根ざす人文系の研究者は、いわゆる「言語論的転回」の名のもとに、言語的に構築されたカッコつきの「現実」の分析に向かった。現実そのものは実在せず、ただ任意のパースペクティヴからなされる解釈の連鎖しかないのだから、あとは現実になりすましている言語について考えればよいというわけだ。

 しかし、近年のフェイク・ニュースやメディア・ポピュリズム、あるいは歴史修正主義の猖獗を考えれば、構築主義は「いちばん声のデカいやつがそのつどカッコつきの『現実』を構築してそれを既成事実化する」という状況を追認しかねないのではないか? そもそも、本当に言語を超えた現実は「実在」していないのか、構築主義に反してでも実在性にアプローチするための哲学を組織し直すべきではないか……こういう問題意識を追い風にして、ここ十数年来、実在論や唯物論が急速に脚光を浴び始めたのである(※)。ガブリエルはこの潮流の有力な担い手として、複数の「意味の場」の客観的な実在性を強調した。

 だが、話はそれで終わらない。というのも、本書では構築主義とは大きく異なる批判対象が新たに定められるからだ。それは自然主義である。

 ガブリエルによれば、自然主義とは、心を物理的なメカニズムに還元しようとする選択を指している。つまり、脳科学や神経科学を突き詰めていけば、いずれ心は隅々まで解明されるという立場を指す。しかし、彼の考えでは、こうした「自然主義的世界観」はすでに行き詰まっている。ガブリエルは哲学者のデイヴィッド・チャーマーズを批判的に継承しながら、心なり意識なり精神といったものは、脳のメカニズムには決して還元できないと見なす。といって、脳の基盤なしに心がどこかから奇跡的に湧いてくるという神秘主義にも与しない。要するに、脳がなければ心も生まれないが、だからといって脳の反応を完璧に記述すれば心が解明されるわけでもない。なぜなら、脳から心に到るとき、質的なジャンプが起こっているからである。

 これは部分の総和は必ずしも全体と同じではないという、よくある論法を思わせる(有名なところではルソーの「一般意志」がそれである――人民の特殊意志をすべて足しあわせても一般意志には到らない)。ガブリエルはそれを「自転車とサイクリング」の関係になぞらえる。自転車=脳はサイクリング=心にとって必要不可欠だが、自転車があるだけではサイクリングには十分ではない。自転車からサイクリングに到るには、質的なジャンプが要る。このジャンプを無視して自転車についてどれだけ解析しても、サイクリングはわからない……。こうして、ガブリエルは心をニューロン(脳)の反応に還元しようとする自然主義を、人間の精神への無理解のあらわれとして、徹底して批判しようとするのである。

<2>その延長線上で、ガブリエルは二つの次元を並置する。一つは自然種、もう一つは精神である。例えば、ガブリエルの考えでは、人間は動物の一種(自然種)であり、その限りで動物と同じく科学や医学の対象となるが、その次元だけに還元されることはない。なぜなら、人間にはもう一つの別の次元、つまり「われわれという身体が姿を見せる次元、人間という意味の場の次元」(181頁)に連なる「精神」(Geist)があるからだ。この精神の次元において、人間は人間以外のものと区別される。つまり、人間は自然種でありながら、それとは別の次元へとジャンプすることができる。ここでもやはり、人間であるには動物的身体=自転車が必要だが、それだけでは精神=サイクリングにはならないという論法が貫かれている。

 さらに、ガブリエルは「心的なものの存在論」(166頁)にも言及する。つまり、作家の精神の生み出した架空の登場人物(例えばマクベス)についても、実在性があると見なすのである。あるいは心のなかに浮かんだ虚妄も、たとえ明らかに誤っていたとしても、それが現実を変え得ることをガブリエルは強調している。「ボソンについての自分の理解が間違っているからといって、ボソンが変わるわけではない。だが、虚妄は自分自身を変えてしまう。しかも多くの場合、まるで別人のように変えてしまうのだ」(61頁)。自然種ならぬ精神(虚構/虚妄)が現実を変える例は、身の回りからいくらでも見つけられるだろう。

 例えば、いま世界じゅうで話題のコロナウイルスはその格好の例である。ウィリアム・バロウズの「言語ウイルス説」を地でいくように、今や世界はコロナウイルスに加えて、まさにウイルスのように宿主=メディアをハイジャックして増殖するウイルス絡みの流言飛語に悩まされている。我々はウイルスを模倣するようにウイルスについて「熱っぽく」語り、その語りに他者を「感染」させ続けている。ガブリエルの用語で言えば、ウイルスには、自然種としてのウイルスと、精神(の生み出す虚構/虚妄)としてのウイルスがあり、そのいずれもが社会に影響を与えるだけの実在性を備えているのだ(それにしても、ウイルスの蔓延するクルーズ船の内情について客観的なレポートもせず、海外向けの正確な情報発信にも寄与しないまま、日々の感染者数の増加をセンセーショナルに煽り立てる日本のマスメディアの報道は、まさに悪しきウイルスと言わざるを得ない――乗客のツイッターを引用するだけならばジャーナリズムは不要である)。

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