デスマッチファイター葛西純 自伝『狂猿』

葛西純「狂猿」第3回 格闘家を目指して上京、ガードマンとして働き始めるが……

  葛西純は、プロレスラーのなかでも、ごく一部の選手しか足を踏み入れないデスマッチの世界で「カリスマ」と呼ばれている選手だ。20年以上のキャリアの中で、さまざまな形式のデスマッチを行い、数々の伝説を打ち立ててきた。その激闘の歴史は、観客の脳裏と「マット界で最も傷だらけ」といわれる背中に刻まれている。クレイジーモンキー【狂猿】の異名を持つ男はなぜ、自らの体に傷を刻み込みながら、闘い続けるのか。そのすべてが葛西純本人の口から語られる、衝撃的自伝ストーリー。

第1回:デスマッチファイター葛西純が明かす、少年時代に見たプロレスの衝撃
第2回:勉強も運動もできない、不良でさえもなかった”その他大勢”の少年時代

入った高校は札付きの不良の巣窟

 俺っちの親父は建設業をやっていたから、将来はその会社に入るんだろうなっていうのは、自分も家族もなんとなくそう思ってた。

 勉強はぜんぜんできなかったし、やる気も無かったから、中学を卒業したらもう就職しようと思って、高校受験はしないつもりでいたんだよ。それでボンヤリ過ごしてたら、担任の先生がシビレを切らして「葛西は高校受験しないのか」って言ってきた。「親父の建設業を手伝おうと思ってるんで」って答えたら、「いや、お前はそれで良いかもしれないけど、高校ぐらい出ておけよ」って説得されてね。それで先生が「お前の成績でも入れる高校を見つけてきたから試験だけでも受けてみろよ」っていう流れになって、地元の高校の酪農科を受験することになった。酪農なんてまったく興味がなかったけど、とにかく入試に行ってみたら、周辺のいろんな中学から、勉強できないやつとか、札付きの不良とかが集まってきてるんだよ。界隈では名が知れていた、中2のときに同級生をナイフで刺して新聞に載ったヤツとかもいたりね。

 テストの内容も「アルファベットで自分の名前を書きなさい」とか、そんなレベル。回答に迷ってたら先生が来て「ここはこうだよ」って答えを教えてくれたりして、さすがにヤベぇなって思ったけど、結果は見事に合格。俺っちは家から1時間近くも離れた所にある高校の酪農科に通うことになった。


 酪農科っていうのは、とにかく朝が早いんだよ。校舎から山のほうへ入っていくと学校の実習農場があって、そこで牛の世話したり、乳しぼりをしたりね。サイレージっていう、牧草を詰めて発酵させたものを作ったりとか、様々な実習があった。

 家畜もたくさん飼ってたんだけど、クリスマスシーズンになると、恒例行事として「鶏をシメる実習」というのがあるんだよ。いままでかわいがって育ててた鶏を、農場の広場みたいなところに連れてくるんだけど、ヤツらもなにかを察したのか必死で逃げ回るんだよ。もう生きるか死ぬかっていう覚悟で逃げる鶏をようやく捕まえると、急に大人しくなって、死を覚悟したのかのように目をつむるんだよ。「ひと思いにやってくれ…」みたいな雰囲気でね。それで鎌で首の頸動脈を切って、ぶら下げて、血抜きをする。やっぱり気持ちのいいものじゃないよ。それで毛をむしって、肛門をダイヤ形に切ってそこから手を突っ込んで内臓を取り出して、最終的には燻製にして、食べた。まぁ、教科書では学べない勉強をたくさんさせてもらったよ。

小島聡のデビュー戦を観る


 酪農科は不良の集まりみたいな雰囲気だったけど、ケンカとかはほとんどなかった。クラスは40人くらいいたけど、女子は3人だけで、ほとんど男子校みたいな雰囲気だった。俺っちは当然のように女っ気は無かったんだけど、周りの不良とかはそれなりに彼女ができたりして、一緒に手をつないで駅まで歩いて帰ったりしていた。それを眺めながら、悔し紛れに「俺っちはそんな淡い青春時代を過ごすタマじゃねぇ!」と一念発起して、高校1年の秋に柔道部に入ることにした。

 別に柔道がやりたかったわけじゃない。なんか体を動かしたいなって思ってたときに、柔道部の部室にベンチプレスの台があったのをチラっとみたんだよ。他にもちょっとしたウェイトトレーニングの器具もいくつかあった。当時、プロレス雑誌で全日本の三沢さんとか川田さんがベンチプレスやってる写真とかをよく見てたから、「プロレスラーが練習してる器具が柔道部の部室にある!」と興奮してね。あれで体を鍛えてみたいという、その一心で帯を絞めることにしたんだよ。

 柔道部は、オレっちが入った時点で部員が5人くらいしかいなかったから、ほとんど実体のないようなモンだった。先生も教えに来ないし、コーチもいない。先輩たちが卒業していったらもう何でもアリで、俺っちは部室の壁に三沢さんと川田さんのポスターを張って、ひたすらウェイトするっていう活動に精を出していた。投げの練習をするときに使う、運動用マットをまとめて縛っただけのダミーがあったんだけど、それにジャーマンスープレックスをかけたり、ローリングソバットをカマしたり……ちょっとしたプロレス同好会みたいなノリだったかもしれない。

 その頃はプロレス友達も出来てたから、帯広で開催されるプロレス興行は団体問わずなんでも観に行ってた。高校2年のときに、新日本プロレスが帯広に来て、友達を誘って観に行った。会場の入り口あたりにすごい体のできた練習生が動き回ってて、やっぱり新日はレベルが高いなって思ってたら、第一試合でその練習生が出てきて「本日デビュー戦の小島聡選手です!」ってコールされた。運良く、小島聡さんのデビュー戦を目撃することが出来たんだけど、やっぱり本物のプロレスラーと自分の「差」を感じるようにもなっていた。

 俺っちの身長は170ちょいで止まりそうだったし、体重も55キロくらいしかなかった。「ウェイト部」の活動でそこそこ筋肉はついてたけど、ガリガリだし、そんなカラダの人間がプロレスラーになれるはずがないと思ってた。ちょうどその頃、UWFがリングス、Uインター、藤原組に分かれた時期で、俺っちはU系の試合もよく観るようになってた。柔道部の顧問の先生がWOWOWに入ってることを突き止めて、「リングスを録画してくれ」って頼んで、ビデオを貸りたりしてね。それで『週プロ』『ゴング』だけでなく、『格闘技通信』も買うようになって、プロレスだけじゃなく、キックボクシングとかシューティングとかにも興味を持つようになった。格闘技なら中量級もあるし、この身長でもやれるかもしれないって思い始めたんだ。

 俺っちが高校卒業する頃は、バブルが終わるか終わらないかくらいの時期で、フリーターというのがすごくもてはやされていた。それでなんとなく、高校卒業したら上京して、フリーターやりながら格闘技のプロを目指そうって考えるようになった。だったら、その前に自分の武器を作っておきたい。熟考した結果、俺っちの特技は「絵」だなと思い立って、『格闘技通信』の読者ページのイラストコーナーに“サル・ザ・マン”というペンネームでイラストをバンバン投稿しまくった。イラストは何度も掲載されるようになって、格通のなかで“サル・ザ・マン”は、常連というか、いわゆる「ハガキ職人」みたいな存在になることができた。これは、俺っちが上京して格闘技でプロになったときに、「あの“サル・ザ・マン”がデビュー!」って話題になればいいなっていう、壮大なプロモーション計画だったんだよ。

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