町田康が語る、酒を断って見出した“文学的酩酊” 「日常として忘れていく酩酊感が読者に伝わったら面白い」
町田康の新作エッセイ『しらふで生きる』が、発売から3ヶ月経った今でも売れ続けている。本作は作家・ミュージシャンである町田康が30年間毎日飲み続けた酒をやめ、酒とはなんだったのか? という問いを柱に、断酒して変わったことやその効用、そして過程などについて書いたもの。ハウツー本のように、辞めるための本ではなく、あくまで自分の経験を書き連ねた内容が、誰もが経験のある酒にまつわる失敗の記憶からか、やけに心に染みる名作だ。今回は、その著者である町田康に、「酒」のことを中心に、執筆のきっかけや文章で伝わる酩酊感などについて語ってもらった。(編集部)
(お酒からの)離脱の過程を書こうと思った
――非常に面白いエッセイとして読みました。書いているあいだは、お酒を呑んでいる人や禁酒をしたいと思っている人に向けて書くという意識はあったんでしょうか。
町田:「こうしたらお酒がやめられますよ」といった、いわゆるハウツー本を書こうとはあまり思っていなかったです。少しはそういう要素も入るかなとは思いましたが。自分にとって酒とはなんだったのか、ということを入り口にしながら書き始めました。ただ、どうやって酒をやめたのかということについては、みんな興味があるだろうと思ったので、そこは書きました。
――『しらふで生きる』では、町田さんがお酒をやめられたきっかけが直感的なものとして書かれていました。いま振り返っても、そのような印象ですか。
町田:人間って「なんとなく」ってあるじゃないですか。
――むしろ、「なんとなく」しかないくらいの感じかもしれません。
町田:でも、文章で「なんとなく」を書くのは難しいし、人に言っても分かってもらえない。「お前、なんで人殺したんだ!?」「なんとなく」って、それだけの話ですよね(笑)。でも、その「なんとなく」が文学のテーマなんですよね。
――町田さんの作品は、作中人物の衝動的・直感的な行動が先にあって、そこから「なぜそのように行動したのか」ということを後付けの理屈で作っていく、そしたら、また違う出来事が発生して……ということが多い印象です。『しらふで生きる』も、そのようなバリエーションのひとつとして読みました。
町田:なにか結論のようなものが最初から決まっていて、見取り図が描かれていて、それを書き写していくということにあまり興味がないです。この本は酒をやめて1年後に書き始めたんですけど、1年後はまだ生々しく酒の記憶が残っていて、自分にとってお酒の存在が大きいものとしてあります。『しらふで生きる』は、それがだんだん離脱していくかたちになっています。もちろん、動画で撮ってそれを配信するような同時進行のかたちではないですけど、文章を書くという時間の感覚で離脱の過程を書こうと思いました。そうすると、なにか時間差による酩酊みたいなものが生まれてきますから。その酩酊を文章で表したかったというのがありますね。
――時間差による酩酊というのは?
町田:時間とともにお酒の記憶がだんだんと離れてきますよね。そうすると、生々しさというものがもうないわけです。その生々しくない自分が、当時の生々しさを文章で表現するときに、生々しさを文章というかたちでもう一度体験するわけです。そうすると、また別の酩酊――文学的酩酊がそこに現れるということです。
――すごく面白い話ですね!
町田:その文学的な酩酊こそが、文学の為すべき酩酊ではないか……。これはわりと本質的な話だけど、面倒くさい話ですね(笑)。
――飲酒体験を振り返る場合、一般的には「時間が経つことによって酒に酔っていた自分を相対化することができ、論理的に再構成しました」というかたちになりそうなものです。しかし『しらふで生きる』は、文章を通じたトリップ感覚を出す作業だったんですね。
町田:酔っぱらった二日酔いの文章を書くときと同じです。もちろん、振り返っていまの地点から相対化するような視点もなくはないです。でも、『しらふで生きる』を書かなかったら日常として忘れていく酩酊感が、この本を書くことによって自分の外に出て明らかになる。それが読者に伝わったら、それは面白いことなんじゃないかな。それで「なるほどね」って共感する場合もあるだろうし、「なんかこの人面白いよね」って他人事として笑うだけかもしれないけど。そういうの良いよね(笑)。
――書くときに読者のことはどのように考えていますか。
町田:人が読んで理解できるか/できないかというのは、あまり考えないですね。自分が読んで面白いか/面白くないかですよね。自分が読んで面白かったら、自分も人間だから誰かは面白いだろう。自分が読んで「なんだこれ? わからないな」と思ったら、人もわからないだろう。そういうふうに考えます。僕がすべてわかっていて、そのわかっていることを学校の授業のように説明している感じはないんですよ。なにもわからない状態で書いていって、「なるほどね」って自分がわかれば、人もわかるだろうという感じです。とくに、この本はそうです。「酒を呑んでいた自分ってなんなんだろう」とか「酒をやめるってなんなんだろう」とか、自分で考えながら書いていく感じです。
――面白かったのは、最初に「酒をやめるなんて狂気」と書かれていたことです。
町田:キ◯ガイとしか思えない(笑)。
――正気/狂気の二分法ではないところで話が進んでいくのが面白いです。
町田:正気/狂気というと観念的な話のように聞こえますが、わりと日々の暮らしの直感として正気と狂気について思うことがあります。それは「酒呑みという狂気だったからそんなことを思うんだ」と言われればそれまでだけど、でも人間は誰も自分を狂気だと思わず、正気だと思って生きている。例えば、誰かにご飯をごちそうしてあげると言われて行くと、ものすごい美味しそうなお刺身とか良い料理が並んでいる。このとき、お店の人が「飲み物どうされますか?」って聞かれたときに「俺、茶で」って答えたら、「キ◯ガイやろ(笑)。ここにこの料理が並んでいて酒呑めへんって頭おかしいやろ、こいつ」っていうふうに思いますよね。ここに「呑め」って書いてあるやん。それを「お茶で」って言ったら、大丈夫か、お前、って(笑)。そういうことは、わりと直感的に思いますね。
逆で言うと、「俺は今日でもう3カ月酒を呑んでいない」となると、すごく達成感があるわけです。人間って数字で物事を考えるとわかりやすいじゃないですか。1位だ2位だ3位だ、とか。100メートルを何秒で走った、とか。そうすると、「人間の暦でもう3カ月呑んでない。やったー! じゃあ、祝杯や!」ってなるわけです(笑)。「おかしいやろ、気ぃ狂ってるやろ。呑んでないって言って、なんで祝杯や」みたいなことはありますね。自分を疑うというか。自分が普通だと思っていることが、よく考えたらかなりおかしいということは、どっちの立場から見てもありますよね。
――なるほど。呑んでいる/呑んでいないにかかわらず、人間の営みにはつねに狂気じみたところがあるかもしれません。
町田:いま言ったようなことを他のことで書くと、「あの人は作家だから人と違う思考をするんじゃないか」とか「あの人はパンクロッカーだから破滅的なのか」とか思うんだけど、酒というものを入れるとみんなある程度思い当たるフシがある(笑)。だから、わりとわかりやすい。