『昭和天皇物語』ヒットの要因はメロドラマ的構成と”顔芸”にあり? 漫画としての魅力に迫る

マッカーサーの興味から始まる本編

 半藤一利の『昭和史』を原作に、『哭きの竜』や『月下の棋士』などの劇画で名を馳せた能條純一が、昭和天皇・裕仁(ひろひと/以下、作品内の呼称で進める)の一生を描く『昭和天皇物語』は、その題材もあって連載開始直後から各方面で話題沸騰。かくいう筆者の仲間内でも、当時の挨拶がわりの第一声は「『昭和天皇物語』読んだ?」であったくらいである。それくらいこの作品は読者を引きつけてやまない力を持っている。いったいなぜか? この漫画は大前提として昭和天皇・裕仁を主人公とした史実をテーマにしたノンフィクションであるが、鬼才・能條純一による演出・構成を与えられて、誤解を恐れずにいえば大河ドラマ的なエンターテインメント性に富んだ作品に仕上げられているからだ。今回、この場では漫画としての『昭和天皇物語』の魅力に触れていきたいと思う。

 まず真っ先に挙げられる魅力の一つは、キャラクターの”濃さ”である。もちろん登場人物は基本的に実在する歴史上の人物であり、モデルが実在するのだが、能條純一の画力のおかげでとにかく見た目が濃く、見せる表情のひとつひとつが過剰で、いちいち読者に強烈なインパクトを与えてくるのである。もはや”顔芸”と読んでも差し支えないその表情は、さながら往年のメロドラマの演技や演出を思わせ、この作品を歴史本ではなく、あくまでもエンターテインメント作品であるという気持ちに読者を誘導するのに一役買っていると言える。単行本の帯には、裕仁を取り巻くキャラクターが、各巻ごとにカテゴライズされて紹介されている。本来登場人物紹介は、単行本の頭のページにあらすじと一緒に置かれるものであるが、あえてこれを帯に持ってくるということは、この作品の売りの一つがキャラクターの造形であることの何よりの証拠であると言えないだろうか?

 またそれぞれのキャラクターは、いい意味で性格的特徴がディフォルメされ表現されているように思える。初期に出てくる乃木希典(のぎまれすけ)や、杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)はひたすら愚直でひたすら固く仰々しく、明治を生き抜いてきた男の気概をこれでもかというくらい感じさせる。その一方で大正の時代になると山県有朋(やまがたありとも)、原敬(はらたかし)、そして節子(せつこ)皇后(貞明皇后/ていめいこうごう)と、一筋縄ではいかないキャラクターが一気に増えてくる。裕仁を巡ってそれぞれの思いが交錯し、相手を飲みこまんと大きな渦をあちこちに形成する。芝居がかった腹の探り合いを繰り広げるものの、それぞれの腹の中がまあ隠し切れていないというか、全部顔に出てしまっている(笑)。そんな調子でキャラクターが大渋滞を起こしているなかで、主人公の裕仁のビジュアルはひたすら線が少なく”薄く”描かれている。感情的な部分でも優しく、穏やかに描かれているが、これは決して主人公が立っていないということではない。むしろ、周りが濃すぎるが故に、裕仁の薄さというよりも透明性を際立たせている。その中で裕仁が時折見せる表情や言葉に強い意志や迫力を持たせ、この人物が将来天皇になる人物であるということをより一層印象付けることに成功している。このあたりのキャラクターの描き分けと性格などの特徴づけの巧みさは、さすが能條純一といったところだろう。

 そして次に挙げられるのは構成の巧みさである。物語は昭和20年9月27日、ダグラス・マッカーサーと裕仁の会見のシーンから始まる。この会見でマッカーサーが裕仁の発言に持った興味、天皇・裕仁はどのような人生を、数奇な運命を辿ってきたのかを知りたいというモノローグから明治37年、裕仁の少年時代に場面転換していくのだが、この作品のテーマをマッカーサーに語らせることによって、読者を一気に作品世界に引き摺り込んでいく。そして物語は裕仁の成長譚として描かれる。感受性が高く聡明な裕仁は、自分の運命、将来的に日本の国家元首となる重責を自分の周囲にいる人間との関わりの中で理解し、受け入れていく。相手の心中を察する洞察力にも優れているが、余計なことは言わず、相手を思い、相手に寄り添ったひと言をかける。裕仁が成長するにつれて、自分の役割を受け入れるにつけ、孤独感は増していく。そんな裕仁の心の支えは後の皇后になる良子であるが、彼女との婚約も周囲の思惑で破談の危機を迎える。しかし、その難局も裕仁自身の聡明さと洞察力で乗り切り、反対する周囲を黙らせることに成功する。

関連記事