稲垣吾郎に芽生えた父性、自分を探す草彅剛、香取慎吾が自覚する不器用さ――意外な“素顔”から見える人間性
草彅剛――自分を演じるほど、見えなくなる輪郭
いつも自然体でどこか飄々としたまま、難役を次々と演じてきた印象がある草彅も、「実は僕メンタル弱いんですよね。すぐ緊張しちゃうし、恥ずかしがりやで」(※2)と明かしていたことがあった。若い頃は、緊張していても平気な顔をして強がっていたが、それが自分を苦しめていると気づき、40歳前後から「僕、緊張してます!」と素直に口にするようになったのだという。
そんなふうに、自分の弱さを言葉にする大切さを知った草彅が、『バナ穴』であらためて直面したと明かしたのは、自分自身を演じる難しさだった。3人の共演シーンについても「逆に緊張したんです」と意外な感想を口にし、「撮影中もずっと自分探しをしていた感覚がありました」と振り返った(※3)。
たしかに、自然体でいることを求められるほど、自分の自然がどこにあるのかがわからなくなるのは、当然のことなのかもしれない。私たちは誰でも、周囲との関係の中で少しずつ違う顔を見せているのだから、「これが本当の自分の素顔だ」と言い切るほうが難しい。“憑依型”と評されるほど、さまざまな役に溶け込んできた草彅が、自分という役に苦戦する。いちばんよく知っているはずの自分を演じることが、かえって難しい。草彅が出会ったのは、隠されていた素顔でも、新たに加わった感情でもなく、簡単には定義できない自分という輪郭だったのだろう。
まだまだ変わりうる3人の素顔
『バナ穴』は、香取と草彅のリアルなやり取りから始まり、本人と役柄の境界をあやふやにしていく。さらに、現実と虚構をつなぐ大きな穴が開くことで、物語は加速していく。不条理な世界観でありながら、ふと「あ、今のは素が出た?」と感じる瞬間もある。それを微笑ましく思う一方で、なぜ私たちはそこに素を感じたのだろうかと立ち止まる。そもそも、3人の素と呼びたくなるもの自体にも、すでにパブリックイメージがあるのではないか。観ているうちに、そんなふうに足元が揺らぐような浮遊感を味わうことになる。
どこまでが本人で、どこからが演技なのか。私たちにはもちろん、ひょっとすると3人にも、明快にはわからないのかもしれない。けれど、「わからない」ということがわかるのも、またひとつの気づきだ。彼らが本人役を演じることで浮かび上がるのは、パブリックイメージと素顔のはっきりとした差ではない。そのふたつが溶け合い、どちらとも言い切れない何かが浮かび上がる面白さだ。『バナ穴』に映っているのは、ひとつに定まった“本当の3人”ではなく、これからも変わり続ける3人を知っていくための“入口”なのかもしれない。
※1:https://fujinkoron.jp/articles/-/20124?page=5
※2:https://storyweb.jp/lifestyle/633405/
※3:https://madamefigaro.jp/culture/260624-bana-ana/