THE YELLOW MONKEY “第5のメンバー”=高橋栄樹が語る、ともに過ごした時代と現在地 25年ぶり監督作「Kozu」に込めたもの
THE YELLOW MONKEYが、再集結以降のMVを収録した『CLIPS 4』を11月12日にリリースする。
これまでにも『CLIPS 1』(2000年)、『CLIPS 2』(2000年)、『CLIPS 3』(2001年)をリリースし、今作『CLIPS 4』にはバンド再集結の楽曲「ALRIGHT」以降のMVを収録。その全14曲のなかには、昨年2024年にリリースされたアルバム『Sparkle X −Complete Box−』に収録されている楽曲「Kozu」の未発表の映像も収録されている。
その映像のメガホンを取ったのは、「SPARK」「楽園」「LOVE LOVE SHOW」「BURN」「バラ色の日々」など、バンドのMVを多く手掛けてきた高橋栄樹監督。THE YELLOW MONKEYとは久々のタッグとなった。
リアルサウンドでは、『CLIPS 4』のリリースを記念して、高橋監督へのインタビューを特集する。いちばん多く彼らをカメラに収め、そしてありのままのTHE YELLOW MONKEYを見つめてきた彼の目に、今のTHE YELLOW MONKEYはどのように映っているのだろうか。初めてのTHE YELLOW MONKEYとのコネクトから、忘れられないと監督自身が語る「楽園」の撮影、解散から再集結までのメンバーとの関わり合い、そして最新作品となる「Kozu」の映像について――。THE YELLOW MONKEYを撮り続けてきた実感と現在地を証言してくれた。(編集部)
THE YELLOW MONKEYと高橋栄樹監督の“絆”
――高橋監督が初めてTHE YELLOW MONKEYのMVを手がけたのは、1996年の「SPARK」からになりますが、どのようなきっかけで監督にオファーが届いたんですか?
高橋栄樹(以下、高橋):それまでは、ほかの監督さんがずっとMVを手掛けていらしたんですが、ちょうど前作の「JAM」を吉井(和哉)さんがご自身で監督されていたこともあって、新しい監督を探していたらしいんです。そのタイミングに、ちょうど僕が自分の作品集を事務所にお送りしていて、そこからお声掛けされたという経緯があったんですが、それと同時に僕がその頃手がけた佐野元春さんのMV(「経験の唄」)を、吉井さんがお気に召されたということも、選ばれた要因にあったみたいです。
――当時、THE YELLOW MONKEYというバンドに対してどういう印象がありましたか?
高橋:不勉強といいますか……正直、当時はよく存じ上げてなかったんです。ただ、吉井さんはご自身で監督もされる方だから、映像に対するこだわりがすごく強いということは、事前にお伺いしていました。加えてメンバーが4人いるわけですから、収集がつかなくなることもあるのかもしれない、と。なので、最初はスケジュールも余裕を持って臨むことにしたんです。
――実際、「SPARK」の撮影はいかがでしたか?
高橋:すごく緊張していたし、ある意味覚悟もしていたんですけど、意外にも最初の打ち合わせからすごくスムーズに進んで。たしか、当時の日本コロムビアの会議室で吉井さんと宗清(裕之/日本コロムビア時代のTHE YELLOW MONKEY担当ディレクター)さんとお話ししたんですけど、まず自分なりの思いをお伝えして、それに対してOKをもらうという感じでした。以降もすごくスムーズで、撮影はもちろん、その後の直しも1カ所ぐらいで。それも、最後のカットの切れ具合が数コマ単位でタイミングが違うということで、すごくちゃんと観ているんだなと驚きました。
――かなり細かなところに、こだわりが表れていますね。
高橋:自分もそうなんですが、MVを監督すると細かいことまで見えるようになるんですよ。だから、ディレクター目線でおっしゃったんじゃないかなという気がします。
――最初にまわりから聞いていた話とは違い、最初のMVは大きな問題もなく完成し、そこから活動休止までの間、2本(「パール」「プライマル。」)を除くすべてのMVを手がけることになります。THE YELLOW MONKEYという稀有な存在から受ける影響も多かったのではないでしょうか。
高橋:それまで僕は自分のジェネレーションから影響を受けたものってあまり表に出さないようにしながら、いただいた仕事のなかでベストを尽くしてきたんですけど、THE YELLOW MONKEYの皆さんは自分のオブセッションみたいなものも含めて、こんなにも世代感をむき出しにするんだということに驚いたんですよ。メンバーの皆さんとは年代が近いから、どんなものに影響を受けているかはわかったんですけど、それをここまでストレートに出していいんだ、って。ちょっとしたカルチャーショックを受けたんです。一緒に仕事をしていくなかで、「じゃあ、試しに自分も世代感を出してやってみよう」と思って実践したのが「BURN」(1997年)でした。それまでは、どちらかというと他所行きとまではいかないですが、その当時にいちばん新しいと感じられることをMVに盛り込んでいたんです。でも、いざ子どもの頃の原体験的なことを反映してみたら、いろいろと出てくるわけです。なので、「BURN」から大きくシフトチェンジできた気がしています。
――たしかに、「BURN」のMVはそれまでとは異なり、非常に和のテイストが強い作風でしたし、バンドが本来持っているドロッとしたものが映像にも強く反映されていて、当時観たときに衝撃を受けた記憶があります。
高橋:僕は「SPARK」、「楽園」(1996年)、「LOVE LOVE SHOW」(1997年)と3本やらせていただいたので、直感的に「次の作品で監督が変わるんだろうな」と思っていたところもあって。なので、「ぜひ次もお願いします」というお話があった時は、そこまでで全部出し切ってしまった感もあったので、自分の過去を掘り下げてみようと考えたんです。「BURN」という楽曲は、ラテンのテイストだったのもあって、たしか当時は「西部劇的な世界にするか、もしくは日本的で寺山修司のような世界のどっちかにしよう」という話をしていて。ただ、西部劇的な方向に振るには、スケールや予算の部分を含めて果たしてやり切れるのかという問題があったり、その前の「LOVE LOVE SHOW」でドカンとブチ上がったところでもあったので、最終的に寺山修司的といいますか、生まれ故郷の東北を彷彿とさせる世界にしようという方向になりました。ただ、当時の自分としてはちょっと怖かったところがあって。
――怖かった、というのは?
高橋:今でこそ日本家屋とか古民家でロックバンドがMVを撮る機会はゼロではないけど、あの頃は前例がなくて。かつ、ほぼモノクロですから、悪ふざけのようにとらえられたら怖いなと思ったんです。でも、「これはアリなんだろうか?」と自問自答しながらも方向としてはこれしかないというのもあって、いざやってみたら結果的に支持していただけてホッとしました。
――1980年代以降、MTVの上陸によって日本でもロックバンドのMVは、洋楽の流れを汲むテイストが主流でしたものね。
高橋:今はそんなことないのかもしれないけど、当時は日常の景色を映したがらなかったんですよね。音楽世界としてのある種のファンタジーを作り上げることがベースにありましたし、どうしても日本的ではない景色を求めがちですし、僕もずっとそういう方向でやっていたからこそ、「BURN」で古い日本の世界観に直接カメラを向けることは勇気のいる作業でした。
――実際、その「BURN」での功績もあり、高橋監督は1997年の『SPACE SHOWER Music Video Awards』でベストディレクター賞も受賞しています。こうした挑戦が評価されたことは、ご自身のなかでも自信につながったのではないでしょうか。
高橋:そういう意味でいうと、自信はあまりなかった気がします。あくまでアーティストと楽曲が主体であり、MVはプロモーションのための映像という位置付けでもあったので、自分が飛躍的に何かを成し遂げたとは思えなかったんです。それよりも、さっき申し上げたような“自分のなかのパンドラの箱”じゃないけど、そういう過去と向き合えたことのほうが大きくて。たとえば、自分の口からイメージとして『ウルトラセブン』とか、言えなかったんですよ(笑)。もちろん大好きでしたけど、そういうことを言っちゃうと「自分の趣味で作っているのでは?」みたいに思われるんじゃないかな、って。ただ、そういうものが好きだと堂々と表明していいんだとわかると、逆に今度はブレーキがなかなかかけられなくなったりもするんですよね。でも、そういう意味での自信とか確信は得られたとは思います。
財産になった“抜けのよさ”と“風通しのよさ”
――1996年から2001年の活動休止までのあいだ、THE YELLOW MONKEYと一緒に仕事をしていくなかで忘れられない出来事や思い出と言われて、最初に思い浮かぶのはどういったことですか?
高橋:もちろん一作一作、成長させていただいたという気持ちがすごく強いんですけど、やっぱり「楽園」の撮影は忘れられないですね。ちょうどレコード会社が変わったタイミングで、最初のシングルということもありましたし、僕にとっても初めての海外でのMV撮影でしたから。あの作品はロンドンで撮ったんですけど、僕自身ロンドンは初めてで、「大丈夫かな?」という不安もあったんです。ただ、実際に行ってみるとちゃんと8時間労働が決まっていて、しっかりしているんですよね。だから、朝9時か10時くらいから始まって、18時ぐらいには終わらなくちゃいけない。そういう決まりごとのなかでやるのも初めてだったし、日本人スタッフは僕と撮影監督だけで、それ以外の美術とかライティングとか全部ロンドンの方だったので、言葉の壁があるなかでちゃんとやれるのだろうかと、いろんなことをシビアに意識した撮影でした。結果的に撮影は非常にスムーズに進みました。ロンドンの景色もとてもよくて印象に残っていて、達成感や幸福感をとても得られた撮影でした。
「楽園」はテレシネ(フィルムをデジタル映像にする作業)まで向こうの現像所でやったんですけど、現地の現像所に着古したジャンパーを着たおじいちゃんみたいな人がいて、「これこれこういう感じで……」と伝えたら「はいはい、わかったわかった」と言って、立ちどころにいい感じのブリティッシュロックテイストの映像が上がってきて(笑)。フィルムのポテンシャルの引き出し方が日本とは全然違うんです。日本だと「ロック的」と言っても、当時はそのニュアンスを汲んでくれる人が少なかったんですよね。大まかな指示だけでボーンと出てきたので、抜けのよさや風通しのよさみたいなものは、財産になりました。
――撮影は長丁場だったと思いますが、空気感はどんな感じでしたか?
高橋:演奏シーンに関しては、普段のライブとは違って実際に音を出すわけではないので、ナーバスになることなく、わりとメンバーの皆さんは気楽に臨んでいるように見えたかな。ひとつよく覚えていることがあるんですけど、「LOVE LOVE SHOW」のMVで吉井さんが真っ赤な衣装を着て、赤いカバンを持っているじゃないですか。あのカバンなんですが、撮影当日に吉井さんが「そういえば、古道具屋にすごくいいカバンがあったんだけど、あれを使ったらどうかな?」と言って、マネージャーさんが急いでそれを買って、急遽撮影に使うことになったんですよ。手作り感っていうんですかね。そういうことがたくさんありましたね。
――ただ用意されたものだけで作るのではなく、要所要所にメンバーのアイデアも散りばめられている。
高橋:そうですね。そういう意味ではプロフェッショナルに徹するというよりは、ちょっと学生ノリがあったといいますか。実は、当時の撮影監督のフジタナオキさんが僕の大学の先輩で、ADの久保茂昭が後輩だったりもしたので、空気感もそこまでドライではなかったと思います。楽器隊は基本的に定位置のなかで演奏する一方で、吉井さんの動きだけは本番になるまでまったく読めなかったので、どこに動いても大丈夫なライティングにしたりして。それくらい気楽と言えば気楽だったんじゃないかな。それこそ、『パンドラ』(2013年公開のドキュメンタリー映画『パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE』)を観ていても、楽屋でマネージャーさんがソファに座っていたりして、僕もそこにカメラを持ってフラッと行っていたわけなので、すごくカジュアルというか、風通しがよかったと思います。
――だからなのか、吉井さんが高橋監督のことを「第5のメンバー」と呼ぶほどの信頼関係がありましたよね。
高橋:たしか、『RED TAPE』(1997年)というライブドキュメンタリーパッケージを作ったときに、中野サンプラザで上映していただいたことがあったんですけど、そこでその言葉が出てきたのかな。あくまでTHE YELLOW MONKEYは4人で作り上げている世界であって、僕はそのお手伝いをしているだけなので、もったいないくらいにありがたい言葉でした。