King Gnuが『ミステリと言う勿れ』の本質を描いた「硝子窓」 久能整の“役割”を説いた楽曲の妙

 劇場版『ミステリと言う勿れ』主題歌として制作され、10月26日に公開されたMVも話題を集めているKing Gnu「硝子窓」。映画はもともとフジテレビ系で月9ドラマとして放送されていた同シリーズの続編的位置づけであり、主題歌の「硝子窓」に関してもドラマ版主題歌であった「カメレオン」からKing Gnuが続投した形となる。

 9月15日の映画封切にあわせ楽曲の全貌が明らかになったのち、同月にオンエアされた『SONAR MUSIC』(J-WAVE)には新井和輝(Ba)が登場。彼の口からはっきりと「『硝子窓』は『カメレオン』のアンサーソングとして作られた」と明かされた点に加え、公開されたMVにもその関連性は事実色濃く見受けられている。

 この両曲はサウンド面も近しい雰囲気を漂わせているが、おそらく共通で鳴る重厚感ある和音ピアノと、ポイントに織り込まれる16ビートがその要だろう。この2サウンドで曲全体をまとめ上げた「カメレオン」に対し、「硝子窓」にはストリングスやアクセントのスクラッチ音が加わる変化感の一方で、共にサビのメロディに重なる常田大希(Gt/Vo)のボコーダーコーラスや、楽曲終盤のサビ2フレーズはビートを抜いた形式の後に音圧を畳みかける共通の展開であることなど。多々盛り込まれた近似要素で、その結びつきを感じ取ったリスナーも多いに違いない。

 単純に、ドラマと地続きとなる映画版の主題歌がドラマ版主題歌の流れを汲むのは至極当然の話のように思える。しかし、これらの楽曲と今回公開されたMV、そして何より両曲が彩る『ミステリと言う勿れ』の物語の本質を併せて解釈すると、「硝子窓」が単なる「カメレオン」の関連曲には留まらない楽曲であることがよくわかる。端的に言えばひとつの可能性として、当初から「硝子窓」は「カメレオン」と一蓮托生の作品として作られていた。はじめから共に語られるべき番いの曲として、この世に生み出されていた。そんな想定があったとも思える構造を、この楽曲は孕んでいるように感じる。

 その構造を紐解くためには、まず『ミステリと言う勿れ』という物語の背景をおさえる必要がある。大学生の主人公・久能整(菅田将暉)が周囲で起こるさまざまな事件を、自身の考察力と観察眼で解き明かしていく本作。あらすじからは一見普遍的なミステリーのようにも思えるが、本作の妙はタイトル通り本質を“ミステリー”としない点だ。あくまで作品の主題は、「事実はひとつでも真実は人の数だけあり、同じ事実/世界も人によって見え方は違ってくる」ということ。トリックの謎解きを楽しむミステリーではなく、事件の背景にある人間群像劇を楽しむヒューマンドラマというのが、より正確な本作のカテゴリーとも言える。

 上記の土台テーマを踏まえつつ、本作を別の角度から見るともうひとつ大きな主題が浮かび上がる。それは事件を引き起こすきっかけともなる、“成熟者”と“未熟者”の軋轢だ。

 “成熟者”と“未熟者”――作中では大人と子ども、保護者と被保護者、指導者と従属者、とも言い換えられる。あるひとつの事実を“成熟者”から見た際の真実と、“未熟者”から見た際の真実。その齟齬によって、結果不幸な事件へ結びついたケースが作中では散見される。さまざまな形でその場の状況に応じて思考やペルソナを適応させる“成熟者”と、未成熟な一面ゆえに環境の変化に適応できず、最終的に自他を傷つけてしまう“未熟者”。特にドラマ版で大きくピックアップされた「天使の連続放火事件」(6・7話)の井原香音人(早乙女太一)と下戸陸太(岡山天音)、「横浜連続殺人事件」を中心とする羽喰親子はその典型例とも言えるだろう。

 本作の鍵は、その両者の中間人物が物語を動かしていることだ。“成熟者”でもあり“未熟者”でもある、あるいはそのどちらでもない。両者の中立として存在し、“成熟者”には彼らが見えていない“未熟者”の真実を、“未熟者”には彼らが見えていない“成熟者”の真実を、それぞれの立場に寄り添い、橋渡し役として伝える。主人公・久能整が担うのは、いわばそんな“中立者”の役目であり、彼の事件解決はあくまでその付属的事象にすぎない。そう考えれば、彼の大学生という設定はまさに妙役。一社会人として働く大人ではない学生である一方で、完全に親の庇護下にいる未成年でもない。まさしく両者の中間地点にいる人間というわけである。

 ここまで楽曲の準拠する物語の構成要素を分解すれば、何を言わんとするか、薄々気づいた人もいるかもしれない。結論から言えば、『ミステリと言う勿れ』のそんな一面をKing Gnuなりの解釈に落とし込んだ楽曲が、おそらく「カメレオン」と「硝子窓」なのではないだろうか。

King Gnu - カメレオン

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