稲垣吾郎が孤高の表現者としてあり続けるのはなぜか 映画『正欲』で深めた“普通”に対するアプローチ
おそらく、“普通”側の人は本来の自分とは異なるイメージが世の中に知れ渡っていくのを、怖がったり、つらく思ったりするのではないか。「みんなが言っているのは本当の自分ではない」「それは間違っている」などと、訂正してまわりたくなるのではないか。だが、その実際の自分と、世間が見る自分とのギャップも、むしろ楽しんできたという。このあたりに、もしかしたら稲垣の持つ「狂気」と呼びたくなる面があるのかもしれない。
一方で、そのパブリックイメージから、新たな“普通”を生み出してきたのも稲垣のすごいところだ。今では珍しくない日傘男子も、一時期は半同居をしていたという友人・ヒロくんとの関係性も、花を愛でる生活をしていることも……。
最初こそ驚きの声が上がったものの、「あの稲垣吾郎なら」と今では当たり前に受け入れられるようになった。何をどこまで見せることで、世の中が変わっていくのか。どこまでが戦略かはわからないけれど、稲垣が「生きることに器用になってきた」と語るのは、そういうところなのかもしれない。
また、稲垣はインタビューの終盤には「承認欲求」についても言及。これが「わりとゼロに近い」というから興味を掻き立てられる。「あえて言うなら、もう放っておいてほしいという自分もいるにはいる」とも。もちろん、これまで注目されることが前提の人生を生きてきたからだろう。しかし、この声はもしかしたら否が応でも注目されるマイノリティ側に共通する感覚ともいえるかもしれない。
「啓喜を見た観客が、何が正しくて何が正しくないのか、何が普通で何が普通じゃないのか、ぐらついていく。そういう気持ちになっていただければ、自分のアプローチは正解だったのかな」とは『正欲』での話。だが、ひょっとしたら稲垣吾郎という表現者が生涯を通じて世間にアプローチしているのも、もしかしたら近い部分があるのではないだろうか。
何が正しくて何が正しくないのか。何が普通で何が普通じゃないのか。それは、いくらでも揺らぐもの。そう気づかせてくれるきっかけを、稲垣は作品を通して投げかけ続けているのかもしれない。
「これを稲垣吾郎が演じるの?」と驚かれるような役にチャレンジし、そのたびに「これは稲垣吾郎にしかできなかった」と言われるキャラクターに仕上げていく。そんな稲垣の可能性の広がりは、きっとマイノリティとマジョリティの境界線を曖昧にし、より世界を複雑に、そして奥深いものにしていくのではないか。
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