久保田利伸「LA・LA・LA LOVE SONG」はいかにして誕生したのか ファンキー・ジャム社長 大森奈緒子氏インタビュー【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第5回】

なぜナオミ・キャンベルを起用?「LA・ LA・LA LOVE SONG」誕生秘話

 そして、いよいよ次にこのチームが挑むことになるのが『ロングバケーション』ということになる。脚本は北川悦吏子氏。「夢 with You」が主題歌となった『チャンス!』は若手時代の彼女によるものだった。北川氏はその後、久保田利伸のコンサートや打ち上げに参加するなどつながりができていたというのも運命的な縁だったといえるのかもしれない。

 そんな中、いつものようにファンキー・ジャムにやってきた敬さんは、大森氏と情報交換やアイデア出しのミーティングをしていた。大森氏は山口智子が久保田の大ファンで、とある女性誌の対談相手に久保田利伸をリクエストしてきたことを伝えた。聞くところによると、自らチケットを購入し、一般客にまじってライブを見に来るぐらいだという。そして、そんな大森氏も山口智子の大ファンで、むしろいつか彼女と一緒に何か仕事がしたいと敬さんに熱弁するのだった。気がつくと敬さんは、山口智子の所属事務所である研音の当時社長だった児玉英毅氏と大森氏を引き合わせていた。

 児玉氏と、当時会長でありオーナーの“BOSS”こと野崎俊夫氏は、当時のことを次のように振り返る。

「敬と会ったのは、いつだったかな?(彼がアーティスト担当をつとめた)平井堅が『王様のレストラン』(1995年、主演:松本幸四郎)の主題歌(「Precious Junk」)を担当したときにはおそらく会ってるんだけれども、やはり印象に残っているのは『ロングバケーション』の時の方が強い。久保田利伸はソニーのジャンボからプロモーションを受けていたんだけれども、気がついたら敬と私のやり取りでことが進んでいったように思う」(児玉氏)

 1年以上前に、敬さんは、1996年4月クールのフジテレビ系月9枠は山口智子主演で相手役が木村拓哉だという情報を入手していたという。

 野崎氏は「気がついたら敬は毎日、研音にいたな。毎日といってもひどいときは1日2回。昼来たと思ったら夕方も来てた。何かをプロモーションするというよりは、ただいる(笑)。もちろんプッシュするアーティストのことはよく語るんだが、とにかくこちらが応援せざるを得ない状況になるまでずっといる(笑)。気がつくと、ファンキー・ジャムの大森さんもいた(笑)」と述懐する。

「研音の児玉さんと初めて会ったとき、まず彼の人柄に私自身が惚れこんでしまい、とにかくまた会って話がしたいと思うようになった。最初に会ったときは、私がいかに山口智子さんが好きかということを一生懸命ひたすら語ったんだと思います。そのときの私は単純に“久保田と山口さんとで仕事が何かできたら……”ぐらいの気持ちでした。あとから『ロングバケーション』の話を聞かされた時、当時久保田は活動の拠点をニューヨークに移して、日本の音楽業界からは距離を置いている人という風に見られていた節があるから、“久保田を提案してもよいんですか?”とこちらから聞いたぐらいです」(大森氏)

 敬さんは、児玉氏と大森氏のやり取りを見ながら、情報を巧みに引き出して、『ロングバケーション』というドラマの主題歌を決めるために、どこの誰にどうアプローチしていくかをシミュレーションしていたんだと思う。

 前出の大森氏の言葉のように“トレンディドラマ”の主題歌を獲得して楽曲が大ヒットするという図式は当時の鉄板のヒットの方程式であり、獲得にも多大な苦労を要求された。競合のアーティスト候補もひしめいていたという。敬さんは奔走した。

 ドラマに関わるこだわりの強い関係者の中からキーパーソンを嗅ぎ分け、提案アーティストの味方になってもらう必要があった。特に、『ロングバケーション』において一番苦労したのは演出の永山耕三氏だという。久保田利伸に主題歌が内定しかかったとき、永山氏から“女性の声が欲しい”というリクエストが入った。久保田サイドはデュエットソングを歌うつもりは毛頭なく、永山氏からのリクエストは一瞬成立不能なように思えた。

 大森氏、ジャンボさん、敬さんをまじえチーム内で諦めムードが漂ったときに、久保田本人が「ナオミ・キャンベルなんてどうですか?」とつぶやいたという。偶然にも、彼女は久保田利伸と同じマンションに住んでいたのだ。エレベーターでたまたま遭遇した彼女に久保田利伸が直接交渉した。「僕のレコーディングに参加しない?」と。結果的に『ロングバケーション』で山口智子の演じる役が“売れないモデル”の設定だったことも、この起用に説得力を生んだ。

「日本の女性アーティストとのデュエットソングにするつもりもなかったし、洋楽アーティストにしたら歌詞が英語の曲になる。それも避けたかった。当時トップモデルだったナオミ・キャンベルのコーラス起用は、その両方をクリアするベストアイデアで、これしかないと思った」(大森氏)

 永山氏もニューヨークのレコーディングに立ち会い、「LA・ LA・LA LOVE SONG」誕生の瞬間に立ち会ったという。

 僕らは平成のスーパーヒット曲、久保田利伸 with ナオミ・キャンベル「LA・ LA・LA LOVE SONG」が、当時トレンディドラマの象徴とされた『ロングバケーション』の主題歌に起用され大ヒットしたという事実しか知らない。その陰で敬さんを中心とした関係者たちの泥臭いプロモーションとネゴシエーションが展開されていたことを知り、驚きを禁じない。おしゃれさや華麗さとは無縁なストレートで実直なプロモーションの日々の積み重ねと、決定に至るまで、クリエイティブサイドのリクエストに応えながら、どんなプロセスもおろそかにせず、最大最高の状況を作るための努力がスーパーヒットにつながっているということを改めて思い知るのだ。

久保田利伸 - LA・LA・LA LOVE SONG with NAOMI CAMPBELL [Official Video]

 大森氏の発案で児玉氏生誕の地、中国 上海を訪ねる旅が企画・実施されたこともあったようだ。ジャンボさんと敬さんも参加し、楽しい旅行となった。

「毎晩美味しい中華をいっぱい食べて、大好きな児玉さんの話をたくさん聞いて。タカシはなんかそわそわしてたわね。個人行動が好きだったから団体旅行は苦手だったのかもね」(大森氏)

「タカシは人と人をつなぐ怪物」

 大森氏に敬さんがどのような人物だったのか改めて尋ねてみた。

「とにかく群れるのが苦手、孤高の人。仕事っぷりはゲリラ。処世術を全く持ち合わせていない。例えば上司の機嫌を取るとか、下を育成するとか、そういうことに関しては、当時の私の印象では全くなかったと思いますよ。あと、“自分をわかってください”的な発言がゼロなんですよ。自分を売り込むにあたって、僕はこういう人間ですとか、多くの人は自分のキャラを出しがちですが、それがないんですよね。そうすると、相手がタカシに対していろいろ聞くしかなくなるんですよね。あと、仕事の余韻を全然楽しまない。“ブック(ブッキング)終了、次!”って言って、先に進んでいく。普通だったら成功を堪能する時間がほしかったりするものなのに」

 久保田利伸が『電波少年』のヒッチハイク企画第3弾、朋友(パンヤオ)のアフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイクの応援ソング「AHHHHH!」を手掛けたときは、敬さんは自分の部署、Tプロジェクトを立ち上げた後だったという。(※第2回連載参照)

「ゴールのノルウェーには、どうしても来てくれとリクエストして、けっきょくソニーからはタカシだけの参加になった。今でも憶えているのは、ゴールのタイミングで極寒の中に灯台があって、その下で久保田が応援歌を歌ったときのこと。それを見届けた後、宿泊する2階建てのコテージに戻って中庭に出ると、空一面にオーロラが出ていて。それを見たタカシが“怖い怖い”と言っていたのが印象に残っていますね。黒夜の空一面に浮かんだオーロラは神秘的というより不気味だったのかな」

 敬さんは、ワーナーミュージック・ジャパンの社長就任後もファンキー・ジャムを訪れた。

「私が“ソニーを辞めたの?”って電話をしたら、“今から行ってもいいですか?”と」

 かつてのように敬さんは突然オフィスに現れ、ホットコーヒーに氷を入れたアイスコーヒーを飲みながら、ワーナー移籍のいきさつをひとしきり話した。その時、大森氏が聴いていた新人のデモテープを偶然耳にした。敬さん好みの繊細でソウルフルな歌声だった。

 平井堅やCHEMISTRYなどこれまで携わってきたアーティストはそのままレーベルに残るため、もう一度“自分色”の新人を一から作りたい……そんな敬さんの願いと、新人をどう売り出していくかを模索していた大森氏の気持ちが一致した。こうして敬さんがワーナーミュージックで最初に手掛けた新人アーティスト・森大輔との契約が成立した。敬さんは、A&Rからのアイデアもあり、ワーナーミュージックの洋楽レーベルの中で、ブラックミュージックやソウルミュージックのヒットを多く輩出しているアトランティックのブランドを借りて、アトランティックジャパン第1号アーティストと銘打って、森大輔を売り出すことになる。

「ワーナーに行ったタカシには、社長業が重たくのしかかっていたんだと思う。かつてのようにアーティストを売ることだけを考えていればよいわけではなかったんじゃないかな。タカシにはタカシのやらなきゃいけない仕事があり、自ら動くというよりは、下を動かさなきゃならない環境だったのだなと」(大森氏)

 大森氏の言うように、敬さんが就任した直後のワーナーは、デフスターのような“タカシイズム”が現場に浸透するのには、時間を要した。最初の頃は、敬さんが思い描く、アーティストを売るための組織には、程遠かったんだと思う。

「タカシはある意味さっぱりしていた。べたべたした人間関係は求めず、他人に自分への理解を求めなかった。人と人をつなぐ怪物で、固執はしない。歌のうまい人が好きで、自分が好きになれないと頑張れない。だから、久保田と一緒にいることが好きだった。仕事ができる分、社内では孤立していたけど、外にはタカシフリークがいっぱいいた。社員さんにとっては刺激的で面白味のある良き存在だったと思うけど、俗に言う社長業は向いてないんじゃないかな。タカシなら、社長じゃなくても、どこでも通用していたと思う。(ワーナーミュージックの社長就任後も)たまに会社に来ては、珍しく愚痴を言っていたこともあったけれど、もっともっと聞いてあげればよかった」

 大森氏に今回の取材オファーをしたとき、「私の中にもタカシは永遠におります。ただ私ごときが彼のこと……厳密に言うとどこまでわかっていたのか、といったことを疑問に持っております。ささやかな思い出話しかできないと思いますが、雑談でよければお話しします」とあたたかい返信をもらった。

 かつて敬さんが訪れたファンキー・ジャムで貴重でかけがえのない雑談をたくさんすることができた。

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