冨田ラボ、スタンダードを更新し続けて迎えた20周年 制作環境や音楽的興味の変遷、“AIによる作曲”への見解まで語る
日本の音楽シーンにおいて、リスナーのみならず同業者たちからも真の意味におけるポップマエストロとしてのプロップスを得続けている音楽家・冨田恵一。プロデューサー/アレンジャーとして手がけたヒット作や名盤は、冨田の並びない手腕に光が当たったキリンジ/KIRINJIの作品やMISIA「Everything」を筆頭に枚挙に暇がなく、2003年に始動したライフワークとも言えるプロジェクト・冨田ラボでは、自身に深く根ざしている音楽家としての飽くなき探究心に呼応しながら、作品ごとに多種多様なシンガーたちを迎え入れ、エクスペリメンタルな意匠が随所に施された珠玉のポップスを更新してきた。そう、彼のシグネチャーサウンドは絶え間ない更新を果たしてきたということを、冨田ラボの活動20周年を記念して6月にリリースされた2枚目のベストアルバム『冨田ラボ / 冨田恵一 WORKS BEST 2 〜beautiful songs to remember〜』は雄弁に物語っている。
冨田ラボの初期におけるシミュレーショニズム的な手法の追求を経て、前回のベストアルバム(『冨田恵一 WORKS BEST ~beautiful songs to remember~』)がリリースされた2011年以降、冨田はどのように楽曲制作と向き合いながら時代の移り変わりを見つめてきたのか。様々な角度から語ってもらった。(三宅正一)
「シグネチャーを上書きするのではなく“更新”していく」
――音楽的な意匠の更新を重ねてきた歴史でもあると思いますが、冨田ラボの活動20周年という響きと実感はどうですか?
冨田ラボ(以下、冨田):改めて『WORKS BEST 2』を通して聴いたとき、思った以上に前回のベストアルバム(2011年3月リリース)から更新され変化していると感じました。楽曲制作に関しては常に、その時々の興味と向き合っているので変化は予想していたんだけど、まとまった新たなカラーに感じられたのはちょっと意外でしたね。前回のベストから連綿と地続きになっている部分と、変化して更新された部分の両方があるんだけど、それがバランスよく混じってひとつのカラーに感じられたんです。
ただ、冨田ラボで20年、ベストアルバムの2作を合わせると30年近い時間が経っているという実感は、そんなにないんですけどね。変化と更新をモーフィングのようにできたのは、その長い時間があったからかもしれないけど。ただ、僕は自分のシグネチャーサウンドみたいなものをわりと早くに確立して、(プロデュースやアレンジを)依頼されたときも、自分からそれを提示してきたと思うんだよね。で、これは人によると思うけど、そういうシグネチャーサウンドを確立すると、ずっとそれをやり続ける人もいるわけじゃないですか。
――そういうプロデューサーのほうが多いですよね。
冨田:それはもちろん素晴らしいことなんだけど、僕はそのときの音楽的な興味を正直に反映させ、自分自身が高揚する曲を作れば、たとえそれがエクスペリメンタルな要素のあるサウンドであっても、そこに共鳴・共感してくれる人がいると思っていて。そうやって正直に活動してきた結果が、自分の今の評価や仕事に繋がってると思うんですね。だから、そのときの興味を無視して「前にこういうサウンドが好かれたから今回もこれで行こう」みたいなことはできなかった。その結果が、前回のベストと今回の『WORKS BEST 2』におけるサウンドの差異にもなっていると思うんだけど。
――特にロバート・グラスパーやクリス・デイヴ、マーク・ジュリアナなど現代ジャズのミュージシャン、さらにはそこから派生するネオソウルやラップミュージックからのインスピレーションを昇華した『SUPERFINE』(2016年11月)以降の変化は大きいですよね。
冨田:そうだね。『SUPERFINE』のフェーズで現代ジャズやブラックミュージック、ラップやヒップホップに興味が出てきたのは大きいし、それ以降もそれまで築いてきたものを消去するのではなく――僕は自分で演奏もするし、プログラミングもするし、譜面も書くから、そのときに自分のシグネチャーを上書きして消すのではなくて、まさに更新する感じなんだよね。今までの手法を取り入れながら、新たな表現を追求していく。そうすれば今までのファンを裏切ることにもならないし、正直に自分の音楽的興味に従っていけるから。ただ、昔は今よりも、冨田ラボとプロデュース仕事に対するスタンスが同じだったので、苦しい時期もあったけどね。
――“苦しい”というのはどういうニュアンスで、いつ頃の話ですか?
冨田:バラードばかりの依頼が来た時期とか。やっぱりバラードはバリエーションに限りがあるし、だからこそ冨田ラボの最初の『Ship』シリーズ(2003年2月『Shipbuilding』、2006年2月『Shiplaunching』、2010年2月『Shipahead』)の3枚はより顕著なんだけど、普通のバラードが一切ないんだよね。
――ああ、なるほど。当時のアレンジワークやプロデュースワークの反動があったと。
冨田:そう。あってもミディアムスローくらいまでで。それくらいバラードに疲弊していた時期がありました。バラードの依頼が何曲も来ても、その中の工夫は絶対に絶やさなかったからね。2000年代はシングルでリリースされるバラードの依頼がとても多かった時期なんだけど、バンドものは別にして、当時のメインストリームのヒット曲は世界的にはマシンドラムの音色が中心で、バラードであってもわりと当時のヒップホップ、ソウル的な音色だったんですよね。でも、僕は完全に生ドラムのアプローチを打ち込みでやっていた。それも絶対にそうしようと思ってやっていたことなんです。他との差別化になるし、音楽的な高揚感を表現できると思っていたので。結局、僕がマシンドラムを全面的に解禁したのは『SUPERFINE』以降だからね。現代ジャズからの興味を経て、逆にもう普通にマシンドラムのビートを作ってしまおうと思って。
音像としてのヒップホップへの傾倒、フロウの方法論を取り入れるまで
――以前、冨田さんにお話を聞いたときに面白かったのが、「クリス・デイヴやロナルド・ブルーナー・ジュニアのヨレたビートの源流がヒップホップにあって、それを辿っていくとJ・ディラというビートメイカーに行きついた。それでJ・ディラのビートを聴いたら、すごく普通に聴こえた」という(笑)。
冨田:そう(笑)。まず2000年代には、ドラムがマシンやループ、サンプリングという時点で自分の範疇ではないと感じて興味を持てなかった。J・ディラだろうがドクター・ドレーだろうが、洋服屋にあるBOSEの小さいスピーカーから流れてる曲みたいな認識で。R&Bもヒップホップも関係ない感じ。当時のああいうスピーカーってドラムと歌しか聞こえなかったから。だいぶ後になってドラマーが訛ったビートを叩くのが広まってから、大元が J・ディラということを知って聴いてみたんだけど、なんだか普通に聴こえた。すでにもっとアブストラクトなビートや生ドラムの訛ったビートの迫力を知ってしまっていたからなんだけどね。だけど、改めて90年代のヒップホップの流れからJ・ディラのビートを聴くと、彼がいかに特異なビートメイカーでありプロデューサーだったか、ということがわかるんだけど。パッと聴いたときはむしろスムースなビートだと思うくらいに、そこよりもっと進化したものから先に入っちゃったから、順番が変なんだよね(笑)。
変わった順番という意味だと、ヒップホップに興味を持ったのも最初はトラックの音像や質感、構造だけで、ラップには興味がなかった。だけどいろいろ聴いているうちに、ラップはリリックを提供すると同時に、あるいはそれ以上に、曲のビートを決定づける役割だと感じてきて。だけど、僕はソングライター、つまりメロディを書く人間でもあるわけですよ。だからフロウをラッパーに任せて、トラックだけで自分を表現するみたいな価値観が最初は全然なかった。フロウを作りたかったわけですよね。それでまずはフロウのメロディ化というか、『SUPERFINE』のとき、YONCEさんに「Radio体操ガール feat.YONCE」を歌ってもらったんだけど。
――あのヒップホップ的なフロウの方法論も取り入れたオルタナティブなデジタルファンク感は、画期的なサウンドプロダクションだったと思います。
冨田:ありがとうございます。あれは既存のラップを採譜したものではないけど、自分の好きなフロウをメロディに聞こえるような音高にして作ってるわけ。普通にラッパーにラップをしてもらう場合、フロウって基本的にはラッパーに任せるじゃないですか。それで納得の行く最終型まで持っていく方法論があの頃は全然わからなくて、フロウをメロディ化してYONCEさんに歌ってもらったということなんです。その後、ラッパーたちとしっかり仕事したいと思って、chelmicoやRyohuさんにも冨田ラボ作品に参加してもらって。そこでは彼/彼女たちなりのフロウを入れてもらって、さらにそこからトラックに味つけするという作業をしたんですね。その後、Ryohuさんとは彼のアルバム(2020年リリースの『DEBUT』)で仕事をしたり、そこで「ラッパーとの仕事のやり方はこういうことか」ということを少し理解できたんだよね。
――インプットという意味では、2011年3月にリリースされた前回のベストアルバム以降、YouTubeしかり、ストリーミングしかり、いろんな年代やジャンルのアーカイブを横断しながらすぐにリスニングできる時代になったことは、冨田さんにとっても大きな変化だったと思うんですが、いかがでしょうか?
冨田:もちろんそれもあるけど、2011年以降という意味では、このスタジオ(取材を行なった冨田のプライベートスタジオ)ができたタイミングとバッチリ重なってるんだよね。それまではCDやレコードを買って音楽を聴くことがリスニングの中心にあったけど、Apple Musicが2015年に上陸する前に僕がやったのは、前のスタジオでは壁一面を埋め尽くしていた2万枚以上のCDを、今のスタジオを作るときに非圧縮でデータ化したんです。僕とアシスタントの2人がかりで(笑)。
――ヤバいですね(笑)。どれくらいかかったんですか?
冨田:マジで1年くらいかかりました(笑)。しかも非圧縮で取り込むときのコンピュータの処理能力は当然今より遅いですから。アシスタントに「空いた時間にやってください」ってお願いしたら、1週間くらい経ったところで「これはちょっと大変ですね……」ってなって。でも、そうやってアーカイブ化することで、今まで制作のときに「あの曲のあの感じを参考にしたいな」ってCD棚を探していた時間が一気に解消されたのは大きかった。そうやってデータ化してサーチしやすい状況になったことを経て、Apple MusicとSpotifyが日本に上陸したので、自分にとってもそれはいい流れでしたね。今は自分のライブラリとサブスクを併用してるけど、サブスクがアルゴリズムで勝手にレコメンドしてくれるものが悪くないことも多い。