【浜田麻里 40周年インタビュー】第4弾:度重なるレーベル移籍で芽生えた反骨精神 9年ぶりのライブ復活への想いや、9.11など社会不安が制作に与えた影響
9.11、DTMの台頭……時代の変化の中でライブ活動再開へ
――必然的に創作活動にも支障をきたしますからね。『marigold』は、その当時どんなアルバムにしたいと考えていたんですか?
浜田:復活を現実的に考えました。ポリドールでの最後の頃には、ライブを再開したほうがいいと強く進言してくる人が出てきていたんですね。けど、どうしても移籍をしなくちゃいけない流れの中で立ち消えになっていきました。だから『marigold』のときには、必ず立ち上げようという気持ちでした。ライブをやる前提で曲を選定し始めたと思います。そのためサウンドにもロック色が戻りはじめましたね。
――『marigold』で一つ特徴的だったのは、ほぼ大槻(啓之)さんと2人で制作が進められたことですよね。それまでの作り方とは完全に違っていました。
浜田:当初は大槻さんに音の最終段階までお任せしようとは考えていませんでした。『marigold』を作ろうとなったときに、90年代からずっと関わってくれている、今も仲良しのビル(・ドレッシャー)と打ち合わせするためにアメリカに行ったんです。それが2001年のことですね。かつてのような大盤振る舞いはできないけど、いろいろ協力してください、と伝えるために。ビルも喜んでくれました。そして帰国して、曲作りなどを進めている最中に9.11事件(アメリカ同時多発テロ事件)が起こったんです。だから、大槻さんとの共同作業に切り替えた一番大きな理由は何かといったら、9.11なんです。それも運命だったのかもしれませんね。
――実際に渡航制限などもありましたからね。
浜田:そう。制限もそうですし、特にアメリカの人たちにとっては、いろんなことが根底から変わってしまう出来事だったんですよね。そのショックの受け具合は、コロナ禍の比ではなかったような気がします。だから、みんな精神が揺らいでいるような感じでしたし、この状況でアメリカでレコーディングをすぐに行うのは無理だと判断したんです。
もう一つは音楽の時代性ですね。ちょうどDTMが台頭し始めた頃なんです。元々、大槻さんはミックスまですべて自分でやりたい気持ちが強い人で、私のLAレコーディングについても、心の内では反対しているようなところがありました。本来は、90年代などにすごく売れていた日本のプロデューサーたちにも負けないくらいの才能がある人なんですよ。大槻さんにそういう場を提供するというか、私の作品でその力を発揮してもらってもいいんじゃないかと考えました。大槻さんもそれを望んでいたので。
バジェット的にも少々縮小して、自分の身の丈から始めるべき運命だと感じたことも理由の一つです。金銭的に困っていたかといえば、特別困っていたわけではなかったですけど、やっぱり自分自身の身の丈を受け入れるべきだと思ったので。みなさん不思議に思いますよね。単純に経費の問題で、ああいうレコーディング方法にしたのだろうという見方に行き着いていると思うので。
――ええ。バジェットの問題だと考えたでしょうね。
浜田:そのぐらいのほうが逆にストーリーとしては劇的でいいのかもしれないですけど、仮に9.11がなかったら、やっぱりアメリカでやっていたと思います。そうやってできたアルバムに関しては、あの時期としては十分アリだったと思います。「Emergency」という曲がありますよね。
――あの曲の躍動感は『marigold』を象徴するものなのだろうなと思います。
浜田:そうですね。4つ目の理由を挙げるとしたらそれです。トランスミュージックがすごく流行っていた時期で、海外の洋服店でも当たり前のように流れていたんですよね。「このビート感は私の音楽に取り入れられる」と感じて、大槻さんにもそれを強く伝えました。トランス系のダンスビートとハードなギターを融合させた曲を核にしたいと。それでできた曲が「Emergency」だったんです。生ドラムでなくてはならない理由が見つけにくい時代ではありましたね。それまでの海外レコーディング中に、生ドラムでは上手くいかない曲も存在していましたので。だから、結局は一部打ち込みに差し替えた曲も過去にありました。「Crazy Love」などがそうですね。
――確かに、生ドラムによるリズムトラックではそぐわない曲もありますもんね。
浜田:はい。瞬間的かもしれませんが、時代の流れによってカッコいいと感じるものってありますよね。それこそ「Blue Revolution」のドラムは打ち込みですし。当時はリンドラムというドラムマシーンが最先端でした。それを取り入れて作った曲なんですけど、誰も打ち込みだというイメージはないと思うんです。ライブとなると、少し考え方を変えるんですけれどね。
――そうですね。ライブを再開させることを前提に取り組んだアルバムという意味では、いかにステージで披露するのかということも考えながらの制作だったと思います。『marigold』のリリースに伴って、国内では9年ぶりのライブが東名阪で行われることになりました。チケットは早々に売り切れてしまいましたね。
浜田:あのときもどのぐらいお客さんが来てくださるのか、スタッフは誰もわからないような状況でした。私のキャリアを知らないスタッフも増えてきて、周りはいつの間にかみんな年下になりましたから(笑)。もちろんライブを終えてみて、環境に則して精一杯のことをやれたとは思うんですが、俯瞰して見たら、あの時点でもう一回り大きな会場でやれば、その後がスムーズだったかなとは思いますね。そういえば、あの時は丈の短いスカートすら履けなかったんですよね。9年もライブのブランクがあったので、自分の年齢相応な羞恥心に戻ってしまっていたんです(笑)。だから衣装はジーパンでした。以前は、ほぼ大ホールのコンサートだったじゃないですか。ライブハウスでドレスもおかしいし……と思ってましたね。それから、フロアが相当にギュウギュウで苦しそうにしていたのも覚えてます。これだけ多くの人が待っていてくれたんだなと、しみじみ思いました。
――ファンのみなさんは喜んでいましたよ。ずっと麻里さんのコンサートに行きたかったわけですから。
浜田:そうですね。ファンの人たちからの声はずっと届いていて……変な言い方ですが、「いつライブを再開するんですか?」みたいに言われて、プレッシャーを感じてました。今、思い出したんですが、ラジオの公開生放送があったときに、目の前で観覧されていたご夫婦から「麻里さんがツアーを再開するまで、子供は絶対作らない」と言われましたね(笑)。まぁ、確かにライブとかツアーって大変なことが多いんですけど、結果的にあの再開が突破口になって、ここから積み上げていくんだという気持ちになれた気がします。
――ライブ活動を再開した後、デビュー20周年となる翌年には恒例のベスト盤『INCLINATION II』(2003年6月)のリリースを経て、『Sense Of Self』(2003年8月)がリリースになりました。これも制作体制としては、また大槻さんと組んでのものでした。
浜田:はい。レコーディング自体は『marigold』と同じように、大槻さんに演奏をお任せする形でした。ただ、ミックスに関しては自分の意思を最大限に反映させられる環境に戻すべきだと実感していたため、ビクタースタジオのエンジニアと一緒に行いました。
――『Sense Of Self』はどんなアルバムにしたかったのでしょう?
浜田:やっぱりライブを復活させてすぐに制作したアルバムでもあるので、よりライブ感みたいなものを求めていて。1曲目の「Ash And Blue」は代表曲の一つになったと思います。ユニバーサル時代の内省感とは少し違う、内なる自分の姿勢みたいなものをロックサウンドに乗せて歌詞にしていった時代です。若干、マニアックな匂いもするロックに行きついた時期ですね。今に繋がるような、何を言ってるのかわからない歌詞の難解さとか(笑)。
――「マニアック」というのは、どういう観点なのでしょう?
浜田:あの頃なりの音作りというか、歌詞の世界観ですかね。特に当時の大槻さんのギターサウンドは、UKギターロックの匂いが強かったんですよ。歪みが少なめのざらついた音というか。ドラムも、80年代のような抜けの良いクリアな音をよしとしない時代感覚があったと思います。今の耳で聴くと、90年代〜2000年代当時に流行ったグランジ系バンドの音作り自体は正直好きじゃないんですけどね(笑)。歌詞は好きなものが多いかな。
――その点で言うと、たとえば「There's A Will, There's A Way」は意味深いですよ。
浜田:アルバムの中で一番ポップな曲だったと思いますけど、よく考えたらあれが一つの指針と言いますか、座右の銘みたいな。『Sense Of Self』の中で何が残ったのかと言ったら、「Ash And Blue」以上に、「There’s A Will, There's A Way」という言葉ですね。
――あの言葉を目にしたとき、“浜田麻里としての思い”を感じたんですよね。「意志あるところに道は開ける」といった言葉を、麻里さんがどこかで口にしているのを目にした記憶もあるんです。
浜田:状況としてはまだまだ頭を押さえつけられている時代でしたが、自分の信念を基盤に、みなさんが目を向けてくださるようなアーティスト活動をもう一度グッと盛り上げていこうという強い意志がきっとあったんでしょう。それでそういう言葉を選んだんだと思います。