「ねぇ」がTikTokでヒット Ado、yamaら覆面アーティストの中でも異彩を放つYOAKEの存在感
Ado、yama、ずっと真夜中でいいのに。、Wurts……現在の音楽シーンを見渡してみると、「顔出しをしない」アーティストの活躍が目立つ。以前から覆面アーティストというのは存在していたが、現在顔出しをせずに活動する彼らが「顔を出さない」モチベーションは、これまでのそれとは違うものであるように感じる。「キャラ付け」や戦略性ではなく、よりクリエイティブな理由でそうした選択をするアーティストが増えているのだ。
「顔を出さない」ということはつまり表現される作品と「個人」を結びつける線を限りなく薄くするということだ。「誰が」ではなく「何を」にフォーカスを当てることで、表現はより自由に、そして柔軟になっていく。ルックスや属性にとらわれずに世界観を追求することもできる。もちろんそれはアーティストのプライバシーを守ることや、ミステリアスな雰囲気によってリスナーを惹き込むことにも繋がる。メリット・デメリットはあるにせよ、匿名性を前提とするインターネットカルチャーや、ストリーミングの台頭によって楽曲単位で聴かれることが増えたリスナーの行動傾向。そうした時代の変化を背景に広がった「顔出しをしない」あり方は、アーティストという存在を抜本的に変えつつあると思う。
事実、顔出しをせずに活動するアーティストは、作品ごと、楽曲ごとにカメレオンのようにスタイルを変貌させることもある。Adoなどはいい例だろう。さまざまなクリエイターとコラボレーションしながら次々と新たな顔を見せるAdoの歌は、ある意味で「顔がない」からこそ成り立つものだといえる。
そうした意味で、ある種究極ともいえる「覆面アーティスト」がここにいる。名前はYOAKE。その名前と世に出ている楽曲以外は一切が正体不明、ほぼ完全にアノニマスなアーティストだ。2020年に活動をスタートさせ、YouTubeとTikTokで「Sunny」という楽曲を公開すると、以降毎月1曲のペースで楽曲を発表。2022年に入りそのペースは若干落ち着いたが、代わりに1曲が巻き起こす話題の規模は拡大している。2022年4月にリリースされた楽曲「ねぇ」はTikTokを中心に大きなバズを生み出し、ある高校生TikTokerのダンス投稿をきっかけに広がった「#ねぇチャレンジ」はYOAKEを知らない人々の間でも盛り上がり、楽曲の浸透に一役買った。
「メンバーのいないバンドプロジェクト」を標榜するとおり、YOAKEには決まった形がない。楽曲ごとにクリエイターが離合集散し、そのときどきでまったく違うものを生み出す。公式ウェブサイトでは常に参加クリエイターが募集されていて、それも含めて異例だろう。もちろん中心となる「YOAKE」という人物はいるのだが(Twitterに投稿された写真や映像で後ろ姿などは確認できるが、それが同一人物かどうかは定かではない)、現時点ではその人の「人格」が作品の表面から丁寧に排除されている。このご時世、顔を出さないアーティストがたくさんいる中でも、その存在感は異質だ。パフォーマンスは自身で行うものの、メディアで取材に応じる際には本人ではなくプロジェクトマネージャーであるJMS・鈴木健太郎氏が「スポークスマン」として登場しているあたり、かなり徹底したものを感じる。
顔を隠すことが表現の自由度を担保するための方法論だとすれば、YOAKEの作品はそのメリットを最大限に享受しているといえる。何せ、出てくる楽曲出てくる楽曲、ジャンルも違えばサウンドの感触も違い、聞こえてくるボーカルの声もまったく違う。たとえば「Sunny」はアコースティックギターのコードに乗せて男性ボーカルが歌い上げるフォーキーなミディアムチューンだが、3曲目にリリースされた「ふぁなれない」はピアノやハンズクラップが弾むようなリズムを奏るソウル風味の楽曲。その後に出た「密です。」は打って変わって女性ボーカルがキュートな表情を見せるポップチューンになっていて、2021年11月にリリースされた「心花~ココロバナ~」はなんとギターが唸る直球パンクチューンである。
まるで別々のアーティストが別々に作った楽曲がたまたま同じ名前で世に出ているとでもいうようなバラエティ感。それぞれの楽曲のミュージックビデオもテイストはさまざまで、「YOAKE」というのはアーティストネームというよりもレーベルのような概念に近いのではないかとすら思う。登場から3年、スタイルを絞り込むことなく拡散し続けているというのはかなりラディカルなあり方だ。しかもただ幅が大きいというだけではなく、それぞれのジャンルやスタイルでちゃんと芯を食った、クオリティの高い楽曲を生み出しているところがYOAKEの魅力である。