あいみょんが実現する、令和らしいスターの在り方 史上最大規模の全国ツアー公演を見て
人間は常に論理的・合理的であることを求められてしまう。たとえば涙が流れたときは「悲しい」「怖い」もしくは「とびっきり嬉しい」と他者は理解し、その奥にある細かい感情の複雑さはまるでないようにされてしまう。「愛してる」といえば幸せだと捉えられ、「離れたい」といえば相手が嫌になったのだと捉えられる。しかし実際は、それらの言葉の周りに様々な感情が渦巻いている。本来人間の考えや感情はひとつの言葉で表現しきれないもののほうが多いのに、一本筋が通っていることが当然で正しい人間であるかのような価値観に苛まれる中で、あいみょんは「死にたい」「生きたい」とか、「モテたい」「タバコをやめられない」といった、対極にあるものをひとつの楽曲の中で表現することで人間の生々しい感情を掬い上げて肯定してくれる。
あいみょんはこうして芸術の核を保って作品作りを続けながら、令和らしいスターの在り方を実現していることも特筆すべきだ。この日演奏以外で印象的だったのは、あいみょんが会場に集まったファンたちと、まるで自分の兄弟や親戚の子どもに話しかけるような口調で会話をしていたこと。さらに時々ステージ上で座り込む瞬間もあり、最後には寝そべる場面もあった。
昭和や平成における「スター」には、別世界で生きている手の届かない圧倒的な存在であるかのように振る舞うことが求められていた。しかし近年は世界的アイドルたちも、ドキュメンタリーやVlogで素(であるかのように見せた)の姿を出し、練習着のまま撮影したダンスプラクティス映像を公開し、ライブ配信ではファンのコメントを読み上げる。最近は一般人によるInstagramなどSNSの投稿においても、幸せをアピールするために美しい一面だけを切り取ったものや、非現実的な加工を施したものよりも、その人の生っぽさが演出されたものに好感が集まる。受け手と同じ生身の人間であることを見せて距離を縮めることで、憧れの眼差しを獲得できる時代になっているように思う。あいみょんのステージ上での人間味の見せ方や、ファンとのコミュニケーションの仕方は、まさに令和時代のスターの在り方を象徴するものだった。これまで筆者はぴあアリーナで何度かライブを鑑賞し、その中には壮大なファンタジーの世界観を見事に作り上げるアーティストもいたが、あいみょんはこの会場をアーティストとファンだけでなく、ファン同士の距離をも近く感じさせるような親密な空間へと変えていた。
筆者があいみょんのフリーペーパー『東京バージン』でデビュー前に話を聞いたときは「『誰かの背中を押してあげられるような曲になれば』とか、そういう感覚がまったくなくて」と言っていたが、デビューから丸5年、あいみょんは確実に多くの人の背中を押している。あいみょんの音楽に力をもらっている人たちがあの空間には集まっていて、あいみょん自身もみんなの幸せを切に願っているように見えた。最後は「また私の音楽を浴びに、浸りに、楽しみにきてもらったら嬉しいなと思います。また会いたいです。今日は本当にありがとうございました」と締め括った。岡本太郎が語る通り「すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない、そのよろこびが芸術であり、表現されたものが芸術作品」(『今日の芸術』光文社、1999年)であるとするならば、あいみょんのライブ空間こそ芸術作品そのものだった。