乃木坂46 西野七瀬や若月佑美を開花させた映像作家 湯浅弘章 グループの基調を担う作品群を考察
10thシングル『何度目の青空か?』で湯浅は、西野の個人PV「天体望遠鏡」の監督を担当する。湯浅はこの個人PVで、前作収録の「無口なライオン」MVの設定を踏まえ、若月らとの別れを経験した西野の転校先での風景をドラマに仕立てた。同作では、「無口なライオン」の終盤で若月が西野に投げかけた言葉を今度は西野の台詞として再解釈し、西野が転入した先の学校で頼もしい上級生になった姿を描いている。
この作品は、乃木坂46が継続的に設けてきた自由度の高い映像表現の場を用いて、MVと個人PVとをナチュラルに接続してみせるものだった。それはまた、湯浅自身だけでなく柳沢翔や山岸聖太らに見られるように、個人PVを通じて乃木坂46がその作家性に注目し、やがてMVの監督を託してゆくという、このグループが紡いできた映像作品の歴史とも共振する。
続く11thシングル『命は美しい』において企画されたメンバー二人一組のペアPVで、「無口なライオン」のストーリーはさらに展開する。湯浅は西野と若月のペアPV「インスタントカメラ」の監督を務め、かつて通った学校に再訪する西野が若月と邂逅する一歩手前の情景を描いて一連のシリーズ完結編とした。今作「インスタントカメラ」では、それぞれの学校を卒業したあとは容易に再会できないことが示唆されるだけに、ひとときの邂逅の予感はいっそう切なさを際立たせる。
これら一連の「無口なライオン」シリーズを通して、活動初期から演技に定評のある若月の安定感が光るのはもちろんのこと、対になる存在としての西野が、表情の微細なニュアンスに長けた演技者であることも見て取れる。微細な表情による表現は、楽曲パフォーマンスの折に西野がたびたび見せてきた特性でもあった。
一方で、澤本嘉光が継続的に手がけてきた「気づいたら片想い」「今、話したい誰かがいる」そして「帰り道は遠回りしたくなる」といった作品群によって、西野には“儚さ”のイメージが投影され、彼女の代表的な特徴になってゆく。ただし、湯浅弘章作品のなかでみせてきた表現を合わせみるとき、西野の“儚さ”は単なる客体としてあるのではなく、彼女の演者としての繊細な表現がなせる、巧みなアウトプットのひとつであることがわかる。巧みさを巧みさとしてことさらに見せつけるのではなく、ごく当たり前に“儚い”存在であるかのようにみせてしまうことが、彼女の表現者としての一側面だといえるかもしれない。
乃木坂46在籍時最後の湯浅作品出演となるであろう「つづく」のMVでは10年後を舞台に、乃木坂46としての彼女とは大きく境遇の異なる姿を西野が演じてみせ、彼女自身のキャリアと未来、人生の可能性などを思わせる映像になっている。振り返れば、乃木坂46のフィルモグラフィーにおける湯浅作品は、ことごとく時の移ろいを描写するものとしてあった。乃木坂46×湯浅弘章の代表作ともいえる「あの日 僕は咄嗟に嘘をついた」MVから「行くあてのない僕たち」ショートムービーへの連作などがその顕著な例である。時間の経過とともに環境も己の身体も変わってゆくことの切なさと尊さをたびたび映像で示してみせる湯浅の作品は、乃木坂46のコンテンツに長期に渡って豊かさをもたらしてきた。
それらを考えるとき、西野七瀬と湯浅弘章による「つづく」のMVは、乃木坂46の映像コンテンツの来歴、演技に重きを置くグループの特性、西野のパフォーマーとしてのキャリアや湯浅が形作ってきた基調など、さまざまな文脈のうえに立つ作品であることが見えてくる。西野や若月らがグループからの卒業を迎えた今作を区切りにして、彼女たちの表現者としての段階も、湯浅と乃木坂46とが紡ぎ出すコンテンツも、新たなフェーズを迎えるのだろう。
■香月孝史(Twitter)
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。