荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点

 1983年の原宿から、それ以前のロックンロールとダンスを振り返ろう。

 1945年から1952年まで、都内の多くの商業施設が進駐軍によって接収された。銀座3丁目の松屋や4丁目の交差点の和光のビルには、“TOKYO PX”の大きな看板が掛けられていた。代々木には進駐軍の家族のための住宅・ワシントンハイツが90万平米にわたって並び、原宿には彼らの子供のためにオモチャを売るKIDDY LANDがオープンした。その空間の延長としての1950年代の終わり、日本に流れ入ってきたダンス音楽にうなされるように熱中する子供たちの様子は、深沢七郎の中編小説『東京のプリンスたち』に観察日誌さながら記されている。

 彼らは不良かもしれないが、愚連隊ではなく、ただ音楽を聴くと「(死んでもいい)」と思い「身体中満足」するドロップアウトすれすれの高校生たちだ。彼らはリーゼントに開襟シャツを着てマンボやエルヴィス・プレスリーを聴き、親の目を盗んでバイクや車に乗り、自らのリスクで戴冠しストリートを歩く王子たちである。彼らの話す言葉には「スペシャルはいないよ」、「ラブしたい」、「暴力など振う奴はミュージックのない奴にちがいない」と英単語が這入りこむ。

 「スペシャル」、「ラブ」、「ミュージック」……言葉に這入りこんでくる英語は気ままに選ばれたわけではなく、彼らのアイデンティティと係ってくる。

 このことは、1972年に『ルイジアンナ』から『ファンキー・モンキー・ベイビー』まで立て続けに7枚のシングルをリリース、爆発したエネルギーの塊さながら社会現象になったあげく、矢沢永吉という不世出のスターを生み、その後の世界を永遠に変えたグループ、キャロルのやりかたや彼らのありかたに鮮やかだった。彼らは初めて英語/日本語の歌詞を書いたとされる(「やりきれない気持ち」)。それはメンバーのジョニー大倉の名前の成り立ちから始まっている。

「言語を所有する人間は、当然の帰結として、この表現され、言語によって内包された世界を所有する」(フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』)

 だから逆に、異なった3つの世界ーー日本、韓国、そしてアメリカ合衆国(米軍基地としてそれはまず可視化された)という自らの内外に引き裂かれた風景を引き受けるためには、互いを組み替えるために英語と日本語はなかば強引に並列され、バンドのパフォーマンス/ダンスで生きるものとして結びつけられたのである。そのずっとあと、2016年にBAD HOPのT-Pablow、YZERR がラップしたように<日本語英語なんて関係ねぇよ>(「Life Style」)。音楽(ロックンロール/ヒップホップ)は“習い事”ではなくて、現実に働きかけ仮象として蹴り倒すため、言葉の組み合わせを変えることで、切実な世界の再構造化がもくろまれる。英語/日本語詞は現実のライフ(スタイル)へと延長されていく。

■荏開津広
執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

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註1〜6:1983年『ワイルド・スタイル』初公開の熱気と「文化の衝突」―葛井克亮さんとフラン・クズイさん語る

『東京/ブロンクス/HIPHOP』連載

第1回:ロックの終わりとラップの始まり
第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点
第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点
第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響
第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史

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