majiko『CLOUD 7』インタビュー

majikoの“感覚”が生む、アレンジや表現の個性「赤信号は止まることを許されてる時間なんだ」

もし音楽がなかったら、どうなってたんだろう?

ーーさきほど曲順はアルバム全体のストーリーがあって、ということをおっしゃっていたのですが、じつはこの曲順、majikoさんのこれまでの歩みを俯瞰で見渡せるような順番にもなっているなと思って。つまり、宅録から始まって、次の「SILK」は車谷さんの楽曲、そして3曲目以降はアレンジまでご自身の曲という。「宅録、歌い手、アーティスト」という成長の記録がそのまま記されているなあと思いました。そこで、歌い手としてのキャリアを振り返ってお訊きしたいと思います。キャリアの出発点としてボカロPの曲を歌うところからはじめて注目され、そしてホリエアツシさんやlocofrankの森勇介さん、the band apartの荒井岳史さんなどに提供してもらった曲を歌ってきました。歌うことに意識的になったのはいつ頃ですか?

majiko:あの、長い話になるんですけどいいですか?

ーーもちろん。

majiko:中学校に軽音楽部があって、そこに2年から入ったんですよ。ボーカルとして。で、3年になる時にバンドから先輩が抜けてしまって、ドラムがいなくなったんです。しょうがないから、じゃあジャンケンして負けたやつがドラムなって(笑)。わたし勝ったんですよ。でもギターの子もベースの子も1年の頃からずっとそれぞれの楽器やってたから、なんか変な空気になって、じゃあいいよわたしがドラムやるよって。それでドラム・ボーカルになって一生懸命練習しました。3年の夏に『Music Revolution』(※ヤマハ主催の23歳以下によるアマチュア・ミュージシャンのコンサート)に出たんですよ。思い出作りくらいの気持ちで。周りのバンドもわたしたちよりみんな年上だし、白目向いて歌ってる人がいたりして、こえーってなって(笑)。で、結果発表でいろいろな賞が発表されていくなか、グランプリ誰かな、あの白目の人かなあとかぼんやりしてたら、わたしたちの名前が呼ばれて。それからZeppで行われた大会に進んで、そこはダメだったんですけど、推薦枠で全国大会に行けたんですよ。そしたらそこでも賞をもらったんです。それは幼いわたしにとって甘い蜜というか、アイデンティティになるくらい大きな出来事でした。でも周りからは、ドラム・ボーカルがひとつのスタイルみたいに見られるようになって、それをどこかで窮屈に感じるようになってしまったんですよね。その鬱憤晴らしが、ニコニコ動画だったんです。好きな歌をうたって投稿するっていう。それが高2のときで。だんだんそこでも認められるようになってきたのが嬉しくて、よし、ボーカルをちゃんとやろうと。高校を卒業して専門学校に入りました。

ーー専門学校はどうでした?

majiko:ちょっと合わなかったんですよね。それで、父と母がやっている専門学校に編入しました。

ーー最初からご両親の学校に行かなかったのはどうしてですか?

majiko:やっぱり親子だとケンカになっちゃうので、やめとこうと(笑)。

ーーそういうご両親の元で育ったのであれば、歌うことや音楽はいつもそばにあったんですね。

majiko:ありました。小さい頃は家でボーカル・トレーニングのレッスンを母がやっていたので。そういう風景が日常でしたね。

ーー3曲目の「ノクチルカの夜」、これはすごい曲ですね。

majiko:よく書いたなと思います。舞浜の海辺で酒でも飲もうと歩いて向かっていたら途中で豪快に転んで。つまみとかそのへんに散乱して、服は破れてないのに足は血だらけで、もうほんとになんなのって。それで赤信号で止まって待ってたんですけど……その時に、このまま赤のままならいいのにって思ったんですよね。

ーーそれってどういう感情ですか?

majiko:青は進まなきゃいけないんですけど、赤信号は止まってていいんだって思ったんですよ。止まることを許されてる時間なんだなって感じたんですよね。そこから家に帰って曲を作ろうと思ったらエレキギターのシールドが壊れてて、この曲はピアノで作りました。

ーーそういう状況が導いた心象風景だったんですね(笑)。歌詞の<Please rescue me from here>のバックでピアノのアルペジオが始まって、そのままピアノ・ソロになだれ込んでからのサビ、という展開が斬新でした。きっと赤信号で止まってる気持ちがすぐにサビに行かせなかったんでしょうね(笑)。

majiko:あははは。

ーーアレンジがすごく感覚的ですよね。歌の感情と曲の構成がくっついているような印象です。

majiko:ああ、そうかもしれない。自分でもそんな感じがしますね。だから1番と2番でドラムのパターンが違ったり。この曲で言うと、2番の歌詞にある<こんな歌が何になるんだ>という部分でいかにハッと驚かせるかがポイントというか。言葉の意味としては皮肉なんですけどね。

ーーだからそのもっとも強い感情をぶつけるための長いタメなんですよね、それまでは。曲の構成というより感情の流れと考えたほうがすっきりするんです。あのう……世の中との歪みみたいなものって感じていますか?

majiko:めっちゃ感じてると思いますね。やっぱり、学校が楽しくなくて引きこもってる時期もありましたし、親が亡くなったということもありましたし、そういうのがグルグルしたなかで……でもそういうのがひとつでもなかったら、こういう曲は書いてなかったと思います。そもそもあえて舞浜の河原で酒なんて飲まないと思うし(笑)。

ーー音楽がmajikoさんのそばにあるという時期から、いつしかmajikoさんの中にあるという状態になったんでしょうね。

majiko:本当に大切なものなんですよね。わたしにとって音楽って。もし音楽がなかったら、どうなってたんだろう?

ーーこの曲のアレンジにはジャズのテイストが含まれますが、ジャズは聴いていたんですか?

majiko:両親がジャズ畑だったんですよ。70年代の有名なロックの曲をジャズアレンジで演奏するバンドを組んでたりして。家でもジャズがずっと流れてて。もちろんロックもありましたし。そういったものとは普通に接していましたね。

ーーそこからどのようなものを聴いてきたのでしょう?

majiko:小学校の頃にはマレーシアにいたこともあって、そこではイスラムの音楽にも触れていました。だから民族音楽も好きなんですよね。それで、高1のときに組んでいたバンドの子が、「今度これコピーしない?」って持ってきたのがストレイテナーだったんです。そこから邦楽のロックも聴くようになりました。専門学校では、ありとあらゆるジャンルの曲を歌わされましたね。チック・コリアとか、チャカ・カーンとかノラ・ジョーンズとか。

majiko「ノクチルカの夜」

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