K DUB SHINE × DJ MASTERKEY対談 アメリカから持ち帰ったヒップホップの精神

K DUB SHINE × DJ MASTERKEY対談 アメリカから持ち帰ったヒップホップの精神

Kダブシャイン「ヒップホップをカルチャーとか社会を動かす力があるムーブメントだと思ってた」

――キングギドラは95年にアルバム『空からの力』で、BUDDHA BRANDは96年にシングル『人間発電所』でデビューしました。当時、アメリカで得たものをどのように日本に持ち込もうと考えていましたか?

K DUB SHINE:オレはヒップホップをカルチャーとか社会を動かす力があるムーブメントだと思ってたから、それを日本にそのまま持ち込みたいなと思ってた。アー トとしてだけじゃなく精神的な部分……過去から続くブラックミュージックの系譜として今あるものなんだっていうような意識をちゃんと持って帰らないと、ただのサブカルとか、一時的な流行りになっちゃうんじゃないかなって。実際、日本で当時出ていた作品を聴いてると、向こうのヒップホップで 表現されているものの半分も表現されていないような気がしたから。作品として、アートとして、ヒップホップの本質を正確に届けたいし、同時に当時ヒップホップネーションとまで言われるようになっていたシーンの広がり方や、その背景にあるブラックコミュニティーのパワーとか、そういうものまで持ち込んで社会を動かす起爆剤になるようにしたいなって。それがキングギドラの最初の初期衝動だったんだよね。

DJ MASTERKEY:すごいね。立派。こっちはそんなこと、これっぽっちも思ってなかった(笑)。

K DUB SHINE:それはたぶん、ニューヨークという、ヒップホップが死ぬほど溢れてるところにいたからだよ。
 
DJ MASTERKEY:かも。現地のシーンにどっぷり浸かってたから、そういうところはあまり考えてなかった。

K DUB SHINE:こっちはオークランドじゃん。カリフォルニアの端っこで、みんなヒップホップですげえ頑張ってるわけよ。当時だったらソウルズ・オブ・ミスチーフとかトゥー・ショート、E-40、ルーニーズとかもいたけど、オークランドのラッパーたちは「どうすればもっとヒップホップとして認められるのか」っていうことを、80年代から考えてたからね。黒人で大学に進んでるヤツらとか、常にヒップホップのことをディスカッションしてるわけ。そういうところにいたら、そりゃ、やんなきゃいけないなって思うよね。

――一方でヒップホップには、過去の音源をサンプリングして如何に新しい音楽を生み出すかというレコーディング芸術としての面もありますよね。BUDDHA BRANDはそういうところを意識していたんじゃないですか?

DJ MASTERKEY:そうだね。レコード屋にも恵まれていたし、どういうネタでどう作るとか、そういう方に興味があった。

K DUB SHINE:その点は、オレも感心して見てたよ。DEV LARGEはサンプリングにしても、アートワークにしてもすごいヒップホップアートをやってるなって。

――『空からの力』と『人間発電所』をリリースしてみて、シーンや市場の反応をどう受けとめましたか?

K DUB SHINE:渋谷のHMVでは割と評判になってたから1位になれたんだよね。それを見て「よしよし」と思ったけど、そっから「この先が大変だな」って気づいた。自分的には日本人が向こうから帰ってきて、日本語でちゃんとしたラップすれば、ビースティ・ボーイズみたいにすぐ何百万枚売れると思ってた。アメリカだと黒人がやるより白人がやる方が売れるからそんな感覚でいたのよ。でも、渋谷だけで売れて、全国ではそんな売れてない感じにガッカリした。

DJ MASTERKEY:俺はそういうセールス的なところはあんまり考えてなかったな。結果として、『発電所』を出して、いろいろなところで仕事が増えたっていうのはあったけど。

K DUB SHINE:そもそも、やーちんは、あとから帰って来てるしね。

DJ MASTERKEY:そう。『人間発電所』のリリースのとき、俺はこっちにいなかったからね。BUDDHAの活動をしながら、DJとしての仕事もしてたん で、この先どうしようかなって迷ってて。時系列的に言うと、『発電所』を出しました、売れてきました、俺が入りました、みたいな感じなんだよね。

K DUB SHINE:BUDDHA BRANDはDEV LARGEのワンマンみたいなところがあったから。最初のリリースプランはDEV LARGEが1人で練ってたと思うし、デビューしたときは、クリちゃんもデミちゃんもまだピンと来てない感じだったよ。

DJ MASTERKEY:そうなんだよね。本来だったら、「こういうプランがあって、このためにはこうして、こうしていきます」っていうのが普通だと思うけ ど、結構、狂ってる人たちの集まりなんで(笑)。そういう段取りじゃいかない感じのグループだったから(笑)。

K DUB SHINE:だから、やーちんが帰国後、日本のシーンに何を貢献したかは、オレから説明した方がわかりやすいと思う。やーちんは自己分析ができてないから(笑)。

DJ MASTERKEY:お願いします(笑)。

K DUB SHINE:それまでDJは淡々とミックスで曲を繋いだり、スクラッチするだけだったけど、やーちんはDJやりながらフェーダー抜いて、客にシャウトさせたり、自分もシャウトしたりっていう。客とDJが一体化するようなDJプレイを持ち込んだのがDJ MASTERKEYなんだよね。

DJ MASTERKEY:今じゃ当たり前なんだけどね、そのやり方は。

――それは何年頃の話ですか?

K DUB SHINE:96~97年だと思うよ。当時はDJが「Say Ho~」って言うとか、音を抜いて客がみんな合唱したくなるような雰囲気を作るっていうのはなかったから。西麻布イエローだったかな、MASTERKEYのDJを初めて見たとき「超楽しいじゃん!」って思った。ニューヨークでもああいうふうにやってたの?

DJ MASTERKEY:やってた。日本に帰ってきた当時、他のDJはプレイ中にレコードの盤面をガッツリ見ていて音楽を楽しんでるように見受けられなかったんで、もっと音楽を楽しめるような形が理想だなって。それがニューヨークのクラブでDJやったときに学んだことだったんで、それをやれば広がっていくかなと思ってたの。俺はクラブを楽しい場所として広めるのが自分の仕事だと思ってたし、あとはDJっていうものが職業として認められるようにすること。DJという存在が一般的になってくれたらいいなっていう思いがすごくあったんだよ。

K DUB SHINE:俺は自分が思いついたモノを根付かせるのにかなり時間がかかったけど、やーちんは早かったよね。「DADDY’S HOUSE」でそのスタイルが根付いて。

DJ MASTERKEY:渋谷ハーレムでね。97年にDJ KENSEIとDJ YUKIJIRUSHIでそのイベントを始めて。当時はラッパーのみんなが遊びに来てくれて、横でよく盛り上げてもらった。

K DUB SHINE:DJにMCが入って、ラップしながらコール&レスポンスやるのとか、アレで当たり前になったからね。金曜のハーレムにはいつも行って、 MASTERKEYがDJやってる横でMCやるのが楽しくて。毎週ノーギャラでやってたよ。

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